3-01 ブルーノ 前編
ダークエルフは、一度放った矢を二度と手にしない。
昔からある言葉だ。
ダークエルフは射殺した者に敬意を払う。だから死体から矢を引き抜いて再利用するという行為を酷く嫌悪する。矢の再利用など、どこの戦場でもやっている常識だ。しかしダークエルフは、そういった目先のことよりも、己の誇りを優先させる。
その高潔な精神を表すために用いられていた言葉だ。
――しかし今は違う。
臆病者のダークエルフは、矢が届く前にその場から逃げ出してしまう。
だから外した矢を拾うことができない、という蔑みの言葉として使われている。
それも仕方ない。
実際そうだからな。
俺たちの世代は、先祖が守ってきた誇りに泥を塗り、侮蔑にまみれた歴史を歩んできた。そうしなければ競争に生き残れなかったからだ。敬意だ何だと綺麗ごとをぬかせるほど俺たちは強くない。それが明るみに出ただけだ。
森の中でゲリラ戦を仕掛けるだけの時代は終わった。
鉄や鋼に通用した矢も、ミスリル合金製のボディープレートの前には歯が立たない。見晴らしの良い場所に立たされて真っ先に死ぬのは俺たちだ。エルフのように魔法に長けているわけでも、人間のように知恵が回るわけでもない。だからこそ俺たちは今の時代に適応する必要があった。
罠を張り、毒を塗り、闇にまぎれ寝込みを襲う。
灰かぶりと呼ばれ、どんな汚いことでも平然とやる。
それが俺たちダークエルフだ。
俺は転がっている死体に近づくと、その眉間に刺さった矢を一気に引き抜いた。先端に、ドロリとした脳みそがこびり付いている。洗うのは後だ。死体の服で拭い、鼻が曲がりそうな匂いを放つソレを矢筒に仕舞った。
死者への冒涜?
矢をタダで回収できるなら、いくらでもしてやるさ。
「……うぅ」
するとそこで、足元で呻いている男と目があった。
立派な甲冑を着込んだ一人の兵士だ。
見れば男の顎あたりは、風船のように膨れ上がっていた。まるでカエルだ。半開きになった口からは、ひゅーひゅーと、隙間風のようなか喘鳴が漏れている。おそらく腫れた肉が気道を押しつぶしているのだろう。
もはや絶命まで幾ばくもない。
にもかかわらず、男は俺を下から睨みすえていた。この卑怯者とその目が罵っていた。
おもわず笑みがこぼれた。
「この肌が見えなかったのか?」嘲りを浮かべながら問う。
もちろん男は答えられない。悔し涙を浮かべているだけだった。
マヌケ野郎にはお似合いの死に様だな。
俺は背を向け、ふたたび矢の回収作業に戻った。
やがて男の苦しげな息も止み、あたりに静寂が訪れる。
虫の鳴き声と、肉から矢を引き抜く音だけが、空虚に響いた。
手に力を込めながら、そこでふと、ある自問が頭をよぎった。
いつまで俺はヤクザの尻拭いなんてやってるんだ?
ダークエルフに生まれた瞬間から、こういう生き方しかできないと諦めているのか? それはちがう。軍で磨いた弓の腕はそれなりにある。その気になれば、いつでも狩人として生きることができるはずだ。
差別にまみれながら人里で暮らす必要もない。
軍を逃げ出したのも、こういう汚い仕事にうんざりしたからだ。
じゃあ、なぜだ?
なぜこんな生き方を続けている?
なぜ自ら面倒事を背負い込む?
俺はいったい何がしたいんだ?
明確な答えを出せないまま、俺は今を生きている。
俺は、俺がわからないでいる。
話をすこし戻す。
濃い闇が立ち込める森の中。
そこでは焚き火が点々と起こされていた。
その蛍の群れのような火を、軽装の鎧を身に着けた男たちが囲っていた。
総勢20人。
犯罪組織「メーディオ」の戦闘員たちだ。
戦闘員といえば聞こえは良いが、中身は食い詰めたゴロツキ集団。軍隊経験のある俺は、インストラクターとして組織に雇われ、このガキ共の面倒を見ている。
こいつらは皆、俺の事を「兄貴」と呼ぶ。
いつの間にか、そういう関係になっていた。
年齢は20代が中心。
そして全員が、独特の灰色の肌に、尖った耳をしていた。メーディオ・ファミリーは、構成員が全員ダークエルフなのが特徴。かくいう俺もダークエルフだ。
男たちは冷たい土の上に腰を下し、粗末な携帯食料を口にしていた。牛の尻に敷いたような薄くて固いパンだ。俺も部下に混じって、このパンを齧っている。食っていても何も楽しくはない。不気味な静けさの中、パンを唾で湿らせて噛み千切る、にちゃにちゃという音があちこちで響いていた。
20人いて、喋る者は一人もいない。
細い火に照らされたその顔は、どれもこれも暗い影が落ちていた。
それも仕方ない。なぜなら俺たちは、とんでもない失敗をやらかして、おめおめと逃げ帰っている最中なのだからな。
俺たちは、抗争状態だった同盟組織の助っ人として遠征していた。
そのはずだった。
しかし現場に到着してすぐにトラブルを起こし、その結果、守るはずの同盟組織から命を狙われるはめになった。なんとも間抜けな話だ。
ここに来るまでに8人失った。直接戦闘で死んだのは5。残り3は途中で抜け出した。馬鹿め。面が割れているのに連中が放っておくわけがないだろう。いまごろ捕まって見せしめの拷問だ。俺たちは無様に逃げ続けるしかなかった。
しばらくの間、無言でパンを胃に送り込んでいると、
「おい、ブルーノ。来てくれ」
背後から名を呼ばれた。
呼んだのは、俺たちから少し離れた場所で片手を挙げている男。
セリオス・メーディオだ。
「これも食っとけ」
部下に食いかけを渡し、俺は重い腰を上げた。
セリオスは、メーディオファミリーのボスの長男だ。
その風貌はマフィアの若頭というより、折り目正しい役所の青年といった風。体の線も細く、とても荒事を生業にしているとは思えない。しかしその目を覗き込めば、考えは変わるだろう。笑っていたと思ったら、次の瞬間、相手の喉を掻っ切る。そんな狂気を目の奥に孕んでいる。
半年前。
セリオスは晩餐の席で、反抗的な娼婦の腸を、笑いながら引きずり出した。
奴が大通りの娼館を取り仕切ることが正式に決まったその日の出来事だった。ファミリーの幹部たちはそれまで「時期尚早だ」と難色を示していたのだが、その一件以降、奴に異を唱える者はいなくなった。
狡猾でサディスティックな男だ。
セリオスの元へと近づく。
するとセリオスより先に、隣に座る男が口を開いた。
「呼ばれたらさっさと来い、このウスノロ!」
唾と食いカスを飛ばし、高圧的に怒鳴る。
セリオスの隣に居るこの男。
名はペドロ・メーディオ。セリオスの腹違いの弟だ。
たしか14,15ほど。まだ青臭さが目立つその顔に、精一杯の怒気を浮かべている。まるで飼い主の背に隠れながら吠えている犬だ。見ているだけで頭蓋を踏み潰したくなる。
さらに腹立たしいことに、ペドロは酔っていた。
片手には酒瓶。そしていま俺に突きつけているのは、よく火の通った子羊の腿肉。片や俺たちは川で汲んだ水と、固いパンのみ。こういう状況下での食い物の違いが、部下との信頼関係にどれだけ大きな亀裂を生むのかを、このガキは理解できないのだろう。そして『もう一人』は、理解していても止めることができない。呆れて笑けてしまう。
「聞ぃてんのかブルーノ!」
「……」
向けてくる視線を軽く受け流す。
その態度が、おぼっちゃんの神経を逆撫でたようだ。
ペドロは青筋を立てて戦慄き、持っていた酒瓶を地面に投げつけた。陶器が割れるヒステリックな音が、静寂の森に響く。何事かと部下たちの視線が集まりだした。
「んだぁてめぇその態度は! ナメてんのかコラ!」
「ペドロ、そのぐらいに――」
静かに様子を見守っていたセリオスが、ようやく止めに入ろうとする。
しかしワンテンポ遅かった。
「てめぇマジ分かってんのか? 自分の立場ってやつをよお」
ワザと周りに聞こえるように、ペドロは声量を上げてこう続けた。
「今こんな事になってんのもよー」
「もとはといえば、全部てめーのせいだろーが!」
刹那。
盗み見ていた部下たちの気配が変わったのを背中で感じた。
ここにいる全員が、この事態を招いた原因をちゃんと理解している。そしてその原因をつくった張本人であるペドロが、なんとか俺に責任をなすりつけようとしている事も。それをセリオスが半ば黙認している事も。
視界の端で、数人の男が立ち上がるのを捉えた。
チッ、阿呆が。おとなしくしておけばいいものを。口の中で舌打ちしつつ、俺は視線からペドロを遮るように立ち位置を変えた。
セリオスも慌てて割って入ってきた。
「ペドロ、いい加減にしろ」
「でも兄貴、こいつがナメた――」
「いい加減にしろと言っているんだ」
なおも食い下がるペドロに、セリオスはぴしゃりとはねつけた。
その硬質な声に、気色ばんでいたペドロの顔が引きつる。
「今からブルーノと打ち合わせをする。酒が入っているお前がいても邪魔だ。向こうへ行って頭を冷やして来い」
「……」
「聞こえなかったのか?」
「……クソッ! わーったよ、行きゃいいんだろ! ペッ」
ペドロは俺の足元に唾を吐くと、地面を蹴るようにして離れていった。
俺も振り返り、部下たちを一瞥する。
すると張り詰めた空気は霧散し、立ち上がった部下も座りなおした。
「弟がすまなかったな」セリオスが、眉根を寄せながら詫びる。
「いえ、子守も仕事の内ですので」
「そ、そうか……」
ちょっとした皮肉で、その表情に亀裂が生まれるのを、俺は見逃さなかった。
弟の事になると、どうにも冷静ではいられなくなるようだ。
――滑稽だな。
喉まででかかった言葉を、俺は唾といっしょに飲み込んだ。
セリオスはこのおもちゃの兵隊の中で、唯一まともな人物だ。跡目を継ぐには十分な資質を持っている。だが、ひとつ致命的な欠点を抱えている。
弟に甘すぎるのだ。
それも異常なほどに。
本来なら、トラブルを起こした弟を相手組織に差しだすのが道理だ。なんだったらセリオス自らの手で、弟ペドロの首をかっさばく位のパフォーマンスをしなければ面子が立たない。それぐらいの事を、あのバカはやらかしたのだ。
しかしセリオスはそれら一切を拒絶し、組織の名に拭えない泥を塗るのを承知で、こうして逃げている。
考えがあっての行動じゃない。
ただただ、弟が可愛いからだ。
それに付き合わされている俺や部下はたまったものではない。
……いまさらそれを考えても詮方ないか。
優先すべきは、今をどうやって切り抜けるかだ。
俺は頭を切り替え、セリオスと今後の逃走経路についての確認をした。
険しい山間を逃げ続けるうち、偶然とはいえ、このカンニバルに密入国できたのは良かった。おかげで追っ手をまくことができた。
しかしこの国から脱出するのがまた一苦労なのだ。
もしカンニバル国陸軍の国境警備隊にでも見つかれば一巻の終わりだ。無理に国境を越えようとするのは自殺行為以外の何物でもない。
だがこの数では、潜伏するにも限界がある。
見つかるのは時間の問題だ。
いまさら来た道を戻るわけにもいかない。
八方塞に思えたが、しかし運はまだ俺たちを見放さなかった。
過去に盗品の取引があった犯罪組織と偶然接触する事ができ、交渉の結果、国外に脱出するための手段を確保することができたのだ。
……いや、まだ取引が成立したわけじゃない。
ひとつ問題を残している。
その処理を、いまから俺がやらなければいけない。
子守の上に、尻拭いときてやがる。
つくづく損な役回りだ。
ふと腕時計を確認すると、そろそろ予定の時刻に迫っていることに気付いた。
「交代で仮眠を取らせておいてください。俺たちが戻り次第、出発します」
短く告げ、俺は立ち上がった。
「……すまない」セリオスは沈痛な面持ちで謝罪の言葉を口にした。「お前たちにだけ無理をさせて本当にすまない。この埋め合わせは後で必ずさせてもらう。向こうで何が起こったかも、俺が責任を持って親父に説明する。この俺の名に誓って約束する。だがらブルーノ、今は堪えてくれ。頼む」
「失礼します」
感情のこもらない言葉を残し、俺はその場を後にした。
そして十分に離れてから、小さくひとり呟いた。
責任を持って、か。
ふふ。
意外に芝居の下手な男だな。
セリオスから離れた俺は、部下の元には戻らず、ひとり離れた場所で戦闘準備を始めた。
ナイフを抜き、コンディションを診てから腰の鞘に戻す。
弓に体重をかけて大きくしならせ、素早く弦を張る。
着っぱなしのライトアーマーも、体のズレを調整しておく。この鎧は部下が着ているような安物ではなく、軍人時代に支給されたそれなりの物だ。
女を口説くのに不自由しなかった細面に、カモフラージュのための塗料を塗りたくる。連日の重労働のせいで、眼窩は窪み、頬はこけ、出来上がったそれは死神のような恐ろしいものだった。
最後に、左手に忍ばせておいた『仕込み』の確認をする。
そうして大方の準備が終わった頃――
「おっ、そろそろ出発か?」
一人の男が、のしのしと近づいてきた。
大柄な男だ。身長は2mを超し、横幅もかなりある。
俺もそれなりに鍛えてはいるが、こいつを前にすると見劣りしてしまう。
男の名はラウ。俺の相棒だ。
こいつとは軍人時代からの付き合いで、もうずいぶんになる。
ラウも俺同様、組織に雇われている。こいつの場合は殺し専門だが。
がっしりとした顎。太い眉。炯炯とした眼光。
まるで獅子のような獰猛な人相だ。
灰色の髪を後ろに撫で付けてオールバックにし、たてがみのように風に揺らしている。
いまラウが着ている鎧は、俺と同じライトアーマー(軽装鎧)と呼ばれる、動きやすさを重視した形状のものだ。
しかしラウの鎧は、装甲の厚みが俺の倍以上ある。
当然、相当な重量があるはずなのだが、その足取りに重さは感じられない。
武装は、右腕のアームガードに固定されている60cmほどの剣のみ。その刀身は鎌のように歪曲し、まるで獣の爪を連想させる。俗に「鉤爪」と呼ばれる武器だ。見掛け倒しに思われがちだが、格闘戦を主体とするラウにとって、それが最適な形状なのだと理解している。
仕上げにレッグガードのベルトを絞めると、俺は立ち上がった。
「で、そっちの準備はいいのか?」
「俺ならいつでも構わねぇぜ」
まるで酒場にでも向かうかのような軽い調子で答える。これから戦闘だというのに、相変わらず豪胆な男だ。
そう思いつつ、何となしにその手元を見た瞬間――俺は顔をしかめた。
そこには見覚えのある腿肉が握られていたのだ。
こいつ、まさか。
ほとんど答えを察しつつも俺は尋ねた。
「お前、それどうした」顎で差す。
「ん、これか?」するとラウは唇の端をにやりと吊り上げ、あっけらかんとこう答えた。「さっきそこで拾ったんだよ」
拾っただと?
この男はぬけぬけと。
「拾ったじゃなくて、殴って奪い取ったんだろ」
「そうとも言うな」
「……はぁ」
悪びれもしないラウを前に、思わずため息が漏れた。
また後先考えずにやりやがったな。
眉間に皺を寄せている俺を見て、ラウはゲラゲラと笑いだした。
「んな湿気たツラすんなよ、ブルーノ」
「誰のせいだと思っている。だいたいお前はいつもいつも――」
「まーそう言うなって。やっちまったものは仕方ねぇじゃねえか。それよりほれ」
ラウはその丸太のような腕を、俺の肩にガシッと回し、肉を近づけてきた。
「景気付けにお前も食え」
「要らん」
「んなつれねえこと言うなよ。腹ぁ減ってんだろ? 痩せ我慢すんなって、ほれ」
「要らんと言っ――無理やり口に捻じ込んでくるな鬱陶しい!」
「ガハハハハ」
「……チッ、もう行くぞ」
いい加減からかわれている事に気付いた俺は、ラウの腕を乱暴に払い除けると、一人でさっさと歩き出した。
「おい待てって。そんな怒るなよブルーノ。ちょっとした冗談じゃねえか」
野太い声で笑いながら、ラウは俺の後をついて来る。
まったく、この男は。
昔からこうだ。
こいつと居ると、いつも調子が狂う。




