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第7話 ダイアナ

船がアステリアの港へ入ると、岸壁にはすでに人が集まっていた。


入港を知らせる鐘が三度鳴る。

船員たちが係留の準備を始める中、レオンは甲板から港を見渡していた。


王都で渡された資料はアステリアについて書かれてはいたが、しかし、

目の前にある光景は、紙の上からは想像できなかった。


港には魚を積んだ小舟が並び、商船の荷下ろしが行われている。

船大工たちは修理中の船体を囲み、鍛冶場からは金属を打つ音が響いている。

人々の動きに無駄がない。


誰かに命令されて動いているというより、

それぞれが自分の役割を理解しているようだった。


その中に、一人の女性がいた。

淡い栗色の髪を後ろでまとめ、海風に乱された髪を

気にする様子もない。


日に焼けた肌。

頬には細かなそばかす。

華美な衣装ではなく、動きやすい服装をしている。

その女性が、港の中央でトーマスと話していた。


「予定より少し早かったようね」

落ち着いた声だった。

低すぎず、高すぎない。

よく通るのに、決して人を押さえつける声ではない。


トーマスが何かを報告すると、女性はすぐには答えなかった。

一度海を見て、次に船を見て、それから短く指示を出す。

その判断には、迷いがなかった。


レオンは、その姿を見つめた。

――あの人が、頭領だろうか。

そう思った。




その時、少し離れた場所では、カイルが船を降りていた。

彼はまず、船体へ向かった。

係留された船の側面に手を置き、板の状態を確かめる。


長い航海のあとだった。

船体に異常がないか。

索具に痛みがないか。

帆に余計な負担がかかっていないか。

一つずつ確認していく。


「良い船ね」


背後から声がした。

カイルが振り返る。

先ほど、トーマスと話していた女性だった。

近くで見ると、思ったより背が高い。

そして、目が印象的だった。

海の色を思わせる青緑の瞳。

けれど、近くで見ると単純な青ではない。

光の加減で緑にも灰色にも見える。

カイルは一瞬だけ彼女を見つめた。


女性は船を見ていた。

自分ではなく、船を。

それが、少し意外だった。


「ええ」

カイルは船体へ視線を戻す。


「船底がいい。浅い海でも取り回ししやすい。

 それに、帆の配置が風を逃がしにくい」


彼は船の側面を軽く叩いた。

「長距離向きというより、風の変化が多い海域で扱いやすい。

 舵も軽いから、細かい進路変更ができる」


女性は黙って聞いていた。

カイルは話しながら自分でも気づいていた。

普段より、多く話している。

船について尋ねられると、つい説明したくなる。

まして、相手が海を知っている人間なら。


「アステリアの海には合いそうね」

女性が言った。

その声は穏やかだった。

ただ褒めているのではない。

船の特徴を聞いたうえで、海域との相性まで考えている。


カイルは、少しだけ目を細めた。

「特に北側の海なら」

「どうして?」

「波が短いから。大きな船だと、船体が波に取られる。

 これくらいの大きさなら、波の間を抜けられる」


女性は海を見る。


「よく見ているのね」


「海を見るのが仕事ですから」


そう答えたあと、カイルはふと彼女の横顔を見た。

女性は船体を見つめていた。

その目に、仕事を見る人間の鋭さがある。

けれど、次の瞬間、ふっと表情が柔らかくなった。


「あなた、船が好きなのね」


笑顔だった。

ほんの小さな笑顔。

それなのに、カイルはなぜか言葉を失った。

海の上で見てきたどんな景色よりも、近くにあるその笑顔が印象に残った。


「好きですね……」


ようやく答える。

女性は、少しだけ笑った。


「そう」

それだけだった。

彼女は再びトーマスのところへ戻っていく。

カイルはその背中をしばらく見送った。


名前も、身分も、まだ知らない。

けれど、あの女性が、ただ港を歩いているだけの人間ではないことがわかった。


そして、不思議なことに、船のことを話していたはずなのに

頭に残ったのは船のことではなかった。


―

レオンはアステリアの砦へ案内されていた。

石造りの長い階段を上る。

城壁の向こうには、港と海が一望できる。


その景色を見ながら、レオンは、この島が単なる交易拠点ではないことを感じていた。

島そのものが、一つの防衛施設のようになっている。


そして、その中心に頭領がいる。

大広間の重い扉が開いた。

広間の奥。

窓から海を背にして、一人の女性が立っていた。

先ほど、海で見た女性だった。


けれど、レオンが見たのは、先ほどとはまったく違う姿だった。

港では海風に髪を乱されながら、船員やトーマスと自然に話していた。


ここでは違う。

背筋はまっすぐ。

視線は静か。

立っているだけで、広間全体の空気が整う。


「王都からの使節ですね」


声が変わっていた。

港で聞いた声より、少し低く、そしてより静かだった。

けれど、不思議なほどよく通る。

相手を威圧するのではなく、一言一言を、相手にきちんと届ける声。


「お待ちしていました」


レオンは彼女を見つめた。

――なるほど。これがアステリアの頭領か。


美しいと思った。

だが、それ以上に、頭の中でいくつものことを同時に考えている人間だと

感じた。


視線が鋭い。

こちらの服装を見る。

持ち込んだ荷物を見る。


そして、何より、自分がどんな人間なのかを、短い時間で

見極めようとしている。

レオンは自然と背筋を正した。

王都で何人もの貴族と交渉してきた。


けれど、この女性には社交辞令だけでは通じないだろう。

アステリアを守るために、彼女は相手の言葉の裏まで見ようとしている。


それでも、その目には冷たさがなかった。

島を守るものの警戒心と、そこに暮らす人々への責任。

その両方が静かに同居している。


レオンは思った。

港で彼女を見た時とは、まるで違う。

けれど、どちらも同じ女性なのだ。

海辺で微笑んでいた女性と、今、目の前で王都の使節を迎えている頭領。

その二つの姿を、レオンは同時に覚えておこうと思った。


―

一方、港に残ったカイルは、まだ彼女の名前を知らなかった。

彼の記憶に残っているのは、


海風に揺れる淡い栗色の髪。

青緑の瞳。

船を見る時の真剣な横顔。


そして、


「あなた、船が好きなのね」


そういった時の、あの笑顔だった。


同じ女性を見て、二人が最初に見つけたものは違っていた。


レオンが見たのは、アステリアを背負う頭領としての女性。

カイルが見たのは、海を眺め、船に興味を持ち、ふっと笑う一人の女性。


そのどちらも、アステリアで生きる、ダイアナだった。




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