第5話 アステリアへの船
レオンが王室外交執務室の正式な使節としてアステリアへの派遣が決まってから数週間後、
ベルナ港には、王家の紋章がついた帆船が出航を待っていた。
数週間前、ベルナ港の商人たちから、王都へ正式な要請が届いた。
近年、南北を結ぶ交易路では海賊による襲撃が増えた。
商船が襲われれば、積み荷だけでは済まない。
船そのものが失われる。
船員が命を落とすこともある。
商人たちは、海路の安全を確保するために、アステリアとの関係を築くことを望んだ。
アステリアの港を商船の寄港地として利用したい。
可能であれば、島の船団による護衛も依頼したい。
しかし、アステリアは独立した島だ。
こちらから軍船を送りこめば、警戒される可能性が高い。
だからこそ、武力ではなく外交によって交渉する必要があった。
王都では複数の候補が検討された。
その中から選ばれたのが、レオン・ヴァレンティスだった。
ヴァレンティス家の三男。
外交と交易の両方に関わってきた彼は、相手の利益を見ながら交渉を進めることが
できる。
何より、アステリアのように独立性を重視する相手に対して、王都の権威を
前面に出すことが危険だと理解していた。
派遣が決まると、準備が始まった。
正式な書状。
交易条件。
海賊被害の記録。
ベルナ港の商人たちから集めた要望。
そして、アステリアに関するわずかな航海記録。
それらを一つずつ確認する。
出航までには三週間以上が必要だった。
船を選び、船員を集め、食料と水を積む。
海図を準備し、外交使節として必要な人員を整える。
アステリアへの航海は、通常の交易航路とは違う。
だから―船の準備だけでも慎重さが求められた。
―そのころ。
ベルナ港では、別の人間にもアステリア行きの話が届いていた。
カイルだった。
海軍を離れてから、彼は自由な船乗りとして仕事をしていた。
商船の航海を手伝い、航路を確認し、船の状態を見ながら
安全な海域を選ぶ。
海軍で積んだ経験は、民間の航路でも十分に役立った。
今回、アステリアへ向かう外交船には、船に詳しく確かな航海術があるものが
必要だった。
そこで、ベルナ港の商会の一つから声がかかった。
あの酒場で聞いた、海を知っているものだけが、その道を知っている島。
一度、見てみたいと思っていた。
だから、依頼を引き受けた。
彼が乗ることになった船は、王都から派遣される外交船だった。
そこには、正式な使節としてレオンも乗ることになっていた。
出航準備が進む港。
レオンは積み込まれる書類や木箱を確認していた。
その姿からは、貴族らしい、落ち着きが感じられる。
一方
―少し離れた場所では、カイルが船体を調べていた。
帆、舵、索具、船底。
一つずつ確認していく。
レオンは、その様子を一度だけ見た。
ただの船員ではない。
動きに無駄がない。
海を知っている人間の動きだった。
カイルもまた、レオンの姿を見ていた。
王都の使節、今回の旅の責任者。
互いに、まだ名前を深く知るほどではない。
それでも、同じ船に乗る以上
これから数週間、同じ海を進むことになる。
―出航前夜
港には冷たい風が吹いていた。
船には最後の荷物が積み込まれている。
外交文書。
交易品。
食料。
水。
予備の帆。
そして、アステリアについて記された、数少ない古い航海記録。
レオンは船室で書類を整理していた。
窓の外を見る。
王都から離れれば、しばらくこの景色を見ることもない。
今回の任務が、どのような結果になるのかはわからない。
アステリアが交渉に応じるか。
商船の寄港を認めるか。
護衛を引き受けるか。
すべては島に着いてからだ。
―そして
甲板では、カイルが最後の確認をしていた。
海は静かだった。
けれど、明日の海が同じとは限らない。
彼は暗い水平線を見つめた。
まだ、見たことのない島。
まだ知らない海。
―夜が明ける。
船は港を離れる。
レオンは外交使節として、カイルは海を知るものとして。
二人は同じ船に乗り込んだ。
目的地は、アステリア。




