ふたりの国
ナオコは徐々に眠くなってきた。ベッドに近づくと、ごく自然な様子で山田が立ちあがった。
「寝ないんですか?」と布団にもぐりこむ。
「ん、先に寝てろ」
彼は、こちらを見もせずに椅子にすわり、携帯を開いた。ナオコはその背中をまんじりと見て、布団で顔をかくした。あたたかい暗がりに得体のしれない暗闇が広がっていく気がする。
だが疲れた身体で暗い気持ちを維持するのは難しい。
彼女は目を閉じた。
しばらくして、ぱちん、と電気の消される音がした。シーツがめくられて冷気がしのびよる。
薄目を開ける。シルエットだけが浮かんで見えた。
「……なにを考えているんだか」
ほおに冷えた指が触れた。
「なにも考えてないですけど」と寝ぼけ眼で答えると、すぐに指が引いた。
彼の驚きが伝わって、ナオコも目が覚めた。
「起こしたか。悪い」
「いえ」
ごそごそと端に寄ると、彼はためらいがちにベッドに腰かけた。ナオコは布団から目元だけを出した。彼はなにを考えているのか、玄関の方向をぼんやりと眺めている。
「寝ないんですか」
と聞いても動かなかった。腕を引いてみると、彼は肩をはねあげた。非難がましい視線が送られ、すぐに後悔したように視線を落とす。ようやく右膝が寝台に乗る。
ナオコは安心して場所を開けた。そのとき視界に影が落ちた。
気づいたときには唇が触れあっていた。二人分の重みでスプリングが沈みこむ。とっさに腕をつかむと、優しく払われて、頭を支えられた。
顔が離れる。至近距離でみる瞳は、外に流れている河の色よりも暗い。
首元に濡れたものが触れた。ナオコはおどろいて、へんな声を出した。目の奥がちかちかして、止めるべきなのか、止めるべきではないのか、混乱が身体の動きを停止させていた。彼はなにも言わない。それが怖かった。
ようやく「志保さん」と声をかける。
「山田」
「へ?」
山田はナオコの上にまたがったまま上体をあげた。
「君は寝言で頻繁に俺の苗字を呼ぶ。以前は志保さんなんて呼んでいなかったんじゃないのか」
彼女はぞっとした。記憶をなくす以前と同じ、皮肉めいた笑みが彼の口元にうかんでいる。
「それとも別の山田か? 珍しくもない苗字だしな」
「いや、ちが……」
「まあ、どちらでもいいが」
再び視界が暗くなった。ナオコは動揺して動けなかった。Tシャツの下から手がしのびこむ。ぴたりと動きが止まる。彼は彼女を見やってから、シャツをめくった。
インナーの下からのぞいた腹部の右わき腹に、大きさな引きつれがあった。巨大な穴を無理やりくっつけたような醜い傷跡だった。
ナオコは固唾をのんでいた。彼は傷口を発見した姿勢のまま止まっていたが、軽く息をついて、
「触れても?」と小さな声でたずねた。
うなずくと、右手の指先が傷口の中心に触れた。くすぐったくて身をよじると、痕を包みこむように腰を掴まれた。
「……痛かっただろう」と山田は痛まし気に言った。
「あんまり、覚えていないんです」
ナオコは、ほほえんだ。
「でも止血してくれたんですよ、あなたが」
なぜそこに傷口が残っているのか、ナオコには分からなかった。だが、これはマルコの考えによって存在する傷だと彼女は思っていた。そしてそう思うほどに、愛しい傷であると感じていた。
「けっこう気に入っているんです、それ」
と言いながら、手を彼の手に重ねる。
「痛かったのかもしれないし、あんまり綺麗じゃないけど。でも、いいことを思いだすから」
笑いかけると、彼が顔をあげた。切羽つまった表情に、ナオコは目をまるくした。まばたきの隙間に唇が触れていた。早急だった。思わず肩を押しかえす。荒い息がお互いの胸元に落ちる。
小さな声がささやいた。
「以前の俺のことなんて、思い出さないでくれ」
ナオコは彼の表情をたしかめようとした。しかしそれより前に、下唇を噛まれた。しびれが背筋を走る。
「すまない」謝罪には乱暴な響きがあった。
「だが嫌なんだ。君がこうやって……」
「志保さ」
「この場所に連れてきたのも記憶を取りもどすためだろう? なにか所縁があるんだろう。分かっている。さっさと元に戻れば、君に迷惑をかけずに済む。そうすべきだ。だが」
手が首をなぞった。
「なあ、すべてを思い出したら、君は俺から離れていくんじゃないのか?」
ナオコは絶句した。彼はその表情をみて笑った。目元に熱が宿る。
「ほらな」
両手が掴まれる。首筋に吐息がかかる。冷たく固い感触がした。歯が皮膚をかじり、わずかな痛みが走る。血は出ていなかった。だがナオコは驚いて、
「志保さん!」と叫んだ。
彼はハッとして、両手の力をゆるめた。みるみるうちに血の気を失っていく。
「悪い」と小さくつぶやいて離れようとする彼を、ナオコはもはや飛びかかるように抱きしめた。
「すまん。どうかしていた」と狼狽する声を抑えるように、下から顔を合わせる。できるかぎり精一杯、伝わらないものが伝わるように。知らず知らずのうちに流れてきた冷たいものが、口の中に入って、すこし塩辛かった。
口づけを終えて泣いているのは、あのときと同じ方だった。
ナオコは右手をのばして、彼の頬をぬぐった。
「……いっこだけ、聞いてもいいですか」
彼は呆然としていたが「ああ」と言って、うなずいた。
「もし、わたしがこれまでの記憶を全部失くしたとして」
ナオコの声は夜に震えていた。空気のかすかな揺れが見えそうなほど張りつめていた。
「あなたはわたしから離れていくんですか?」
ふたりの心音以外、なにも聞こえなかった。きっと外では木々が揺れ、河が流れている。田舎だから夜空が綺麗で、星が瞬いているかもしれない。
それでも、この世界にはふたりしかいなかった。
「いや」
彼はゆっくりと首を横にふった。そして悲しそうにほほえんだ。
「離すわけがない。君が俺を覚えていようがいなかろうが、馬鹿みたいにしつこく気にかけるだろう。望みがなくとも」
指先が彼女の前髪を分ける。視線が交錯する。お互いに想いが通じないと知っている、その空虚だけが共有されている。それはすでに、だれの手にも届かなくなった宇宙の外側のように、虚しく輝かしいものだった。
「ねえ、志保さん」
「なんだ」
「わたしもきっとそうしますよ。ううん、そうしています」
――――わたしって馬鹿だから。
そう言って彼女は笑った。