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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
エピローグ
172/173

ふたりの国

 ナオコは徐々に眠くなってきた。ベッドに近づくと、ごく自然な様子で山田が立ちあがった。


「寝ないんですか?」と布団にもぐりこむ。


「ん、先に寝てろ」


 彼は、こちらを見もせずに椅子にすわり、携帯を開いた。ナオコはその背中をまんじりと見て、布団で顔をかくした。あたたかい暗がりに得体のしれない暗闇が広がっていく気がする。

 だが疲れた身体で暗い気持ちを維持するのは難しい。

 彼女は目を閉じた。

 

 しばらくして、ぱちん、と電気の消される音がした。シーツがめくられて冷気がしのびよる。

 薄目を開ける。シルエットだけが浮かんで見えた。


「……なにを考えているんだか」


 ほおに冷えた指が触れた。


「なにも考えてないですけど」と寝ぼけ眼で答えると、すぐに指が引いた。


 彼の驚きが伝わって、ナオコも目が覚めた。


「起こしたか。悪い」


「いえ」


 ごそごそと端に寄ると、彼はためらいがちにベッドに腰かけた。ナオコは布団から目元だけを出した。彼はなにを考えているのか、玄関の方向をぼんやりと眺めている。


「寝ないんですか」

 と聞いても動かなかった。腕を引いてみると、彼は肩をはねあげた。非難がましい視線が送られ、すぐに後悔したように視線を落とす。ようやく右膝が寝台に乗る。

 ナオコは安心して場所を開けた。そのとき視界に影が落ちた。

 気づいたときには唇が触れあっていた。二人分の重みでスプリングが沈みこむ。とっさに腕をつかむと、優しく払われて、頭を支えられた。

 顔が離れる。至近距離でみる瞳は、外に流れている河の色よりも暗い。

 首元に濡れたものが触れた。ナオコはおどろいて、へんな声を出した。目の奥がちかちかして、止めるべきなのか、止めるべきではないのか、混乱が身体の動きを停止させていた。彼はなにも言わない。それが怖かった。

 ようやく「志保さん」と声をかける。


「山田」


「へ?」


 山田はナオコの上にまたがったまま上体をあげた。


「君は寝言で頻繁に俺の苗字を呼ぶ。以前は()()()()なんて呼んでいなかったんじゃないのか」


 彼女はぞっとした。記憶をなくす以前と同じ、皮肉めいた笑みが彼の口元にうかんでいる。


「それとも別の山田か? 珍しくもない苗字だしな」


「いや、ちが……」


「まあ、どちらでもいいが」


 再び視界が暗くなった。ナオコは動揺して動けなかった。Tシャツの下から手がしのびこむ。ぴたりと動きが止まる。彼は彼女を見やってから、シャツをめくった。

 インナーの下からのぞいた腹部の右わき腹に、大きさな引きつれがあった。巨大な穴を無理やりくっつけたような醜い傷跡だった。

 ナオコは固唾をのんでいた。彼は傷口を発見した姿勢のまま止まっていたが、軽く息をついて、

「触れても?」と小さな声でたずねた。

 うなずくと、右手の指先が傷口の中心に触れた。くすぐったくて身をよじると、痕を包みこむように腰を掴まれた。


「……痛かっただろう」と山田は痛まし気に言った。


「あんまり、覚えていないんです」


 ナオコは、ほほえんだ。


「でも止血してくれたんですよ、あなたが」


 なぜそこに傷口が残っているのか、ナオコには分からなかった。だが、これはマルコの考えによって存在する傷だと彼女は思っていた。そしてそう思うほどに、愛しい傷であると感じていた。


「けっこう気に入っているんです、それ」

 と言いながら、手を彼の手に重ねる。


「痛かったのかもしれないし、あんまり綺麗じゃないけど。でも、いいことを思いだすから」


 笑いかけると、彼が顔をあげた。切羽つまった表情に、ナオコは目をまるくした。まばたきの隙間に唇が触れていた。早急だった。思わず肩を押しかえす。荒い息がお互いの胸元に落ちる。


 小さな声がささやいた。


「以前の俺のことなんて、思い出さないでくれ」


 ナオコは彼の表情をたしかめようとした。しかしそれより前に、下唇を噛まれた。しびれが背筋を走る。


「すまない」謝罪には乱暴な響きがあった。

「だが嫌なんだ。君がこうやって……」


「志保さ」


「この場所に連れてきたのも記憶を取りもどすためだろう? なにか所縁があるんだろう。分かっている。さっさと元に戻れば、君に迷惑をかけずに済む。そうすべきだ。だが」


 手が首をなぞった。


「なあ、すべてを思い出したら、君は俺から離れていくんじゃないのか?」


 ナオコは絶句した。彼はその表情をみて笑った。目元に熱が宿る。


「ほらな」


 両手が掴まれる。首筋に吐息がかかる。冷たく固い感触がした。歯が皮膚をかじり、わずかな痛みが走る。血は出ていなかった。だがナオコは驚いて、

「志保さん!」と叫んだ。


 彼はハッとして、両手の力をゆるめた。みるみるうちに血の気を失っていく。


「悪い」と小さくつぶやいて離れようとする彼を、ナオコはもはや飛びかかるように抱きしめた。


「すまん。どうかしていた」と狼狽する声を抑えるように、下から顔を合わせる。できるかぎり精一杯、伝わらないものが伝わるように。知らず知らずのうちに流れてきた冷たいものが、口の中に入って、すこし塩辛かった。


 口づけを終えて泣いているのは、あのときと同じ方だった。

 ナオコは右手をのばして、彼の頬をぬぐった。


「……いっこだけ、聞いてもいいですか」


 彼は呆然としていたが「ああ」と言って、うなずいた。


「もし、わたしがこれまでの記憶を全部失くしたとして」


 ナオコの声は夜に震えていた。空気のかすかな揺れが見えそうなほど張りつめていた。


「あなたはわたしから離れていくんですか?」


 ふたりの心音以外、なにも聞こえなかった。きっと外では木々が揺れ、河が流れている。田舎だから夜空が綺麗で、星が瞬いているかもしれない。



 それでも、この世界にはふたりしかいなかった。



「いや」


 彼はゆっくりと首を横にふった。そして悲しそうにほほえんだ。


「離すわけがない。君が俺を覚えていようがいなかろうが、馬鹿みたいにしつこく気にかけるだろう。望みがなくとも」


 指先が彼女の前髪を分ける。視線が交錯する。お互いに想いが通じないと知っている、その空虚だけが共有されている。それはすでに、だれの手にも届かなくなった宇宙の外側のように、虚しく輝かしいものだった。


「ねえ、志保さん」


「なんだ」


「わたしもきっとそうしますよ。ううん、そうしています」


 ――――わたしって馬鹿だから。


 そう言って彼女は笑った。

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