この国の果て
「つ、つかれたー」
思わず叫びながら、ナオコはベッドに倒れこんだ。すると、
「汚い。布団が汚れるから、先にシャワーを浴びろ」と厳しい声が飛んできた。
「はいはい……」
むくっと顔をあげた彼女は、たしかに疲労困憊の様子だった。ベージュのワンピースを着てめかしこんでいるが、長旅のせいで足はむくんでパンパンだ。
「シャワー……はあるな」
山田はコートを脱ぎながら、部屋の設備を見てまわっていた。そしてナオコがベッドに座りこんでぼうっとしているあいだに、てきぱきと荷物を整頓しはじめた。
「ほら、コートくらい脱げ」と彼がため息をついた。上着を脱がされる。
「よっぽど疲れたんだな。旅行慣れしているものかと思っていたが」
「慣れてないですよ。地方に行くのって大変なんですねえ」
「そう遠くもなかっただろう。昨日調子にのってはしゃぐから、今になって疲れるんだ」
「まあ、そうですけど」
昨晩、ワインを片っ端から飲んだことを指摘されて、ナオコは肩をすぼめた。自分ではセーブしたつもりだったのだが身体に残っていたらしい。
六月初旬。ナオコと山田はフランスに居た。四泊六日の旅行である。一昨日の昼に成田空港を発ち、現地時間の夕方、パリに到着した。昨日は観光地をひたすらにまわって、夜はビストロでエスカルゴと魚のオーブン焼き等のフランス料理をたっぷり食べた。
そしていよいよ三日目である本日、彼らは旅の目的を果たすために電車に乗った。リヨン駅からTGVでブザンソン駅に行くまで三時間近く。それからバスで一時間ほどかけて、フランス東部の田舎町、オルナンに到着した。
着いたときには日が暮れかかっていた。くたくたのまま、とりあえず空腹を満たすためにレストランで食事をし、ようやくホテルの部屋に着いた現在である。
部屋は街の郷愁ただよう雰囲気とは異なって、モダンな内装だった。
山田の言うとおり、電車やバスの座席は綺麗とは言いがたかった。しかたがなくナオコはくたびれた身体を引きずってトランクから寝間着を出し、シャワーを浴びにいった。
適温の湯が出るか不安に思いながらノズルをひねる。火傷の心配がない温度であるとたしかめて、頭から浴びる。すこし元気が出た。
はあ、と息をついて身体を洗う。フランスに到着したときから、ずっと夢のなかに居るようだった。しかしオルナンに着いてから、いやに現実感が増していた。
昨晩は旅疲れと酒の力によって、すぐに眠ってしまった。ベッドは一つだったが、十分すぎるほどに広く、気づくと朝だった。
クレンジングクリームを手探りで顔にぬりたくり、一気に流す。さっぱりした気持ちと同時にわきあがってきたのは、やるせなさだった。
――——まあ、いいか。
小さな鏡にうつるびしゃびしゃの自分と目をあわせて、ちょっと笑う。少なくとも彼は旅行を楽しんでいる。それだけでも来てよかった。大切なのは明日だ。今晩のことは考えない。考えないようにしよう。
髪をふきながら彼女はうなずいた。考えすぎると、ろくなことが起こらない。
寝室に戻ると、山田は椅子にすわって旅行雑誌をめくっていた。
「この作家だったよな」と背もたれに身体をあずけて、あおぎみる。人差し指のさきに『クールベ生誕の地 オルナン』と緑豊かな背景とともに記載されている。その下に代表的な絵画の説明と、ついでクールベ美術館について載っている。
「そうですよ」
「だが君の好きな絵は、昨日観た絵じゃないんだろう?」
「……そうですよ」
「ふむ」彼は、探偵のようにあごに手をあてた。
「わからん」
「だから当てようとしなくていいですってば」
「このクールベ美術館になかったら、いよいよ分からんな。もしかして日本にあったりしないよな?」
「……」
「おい」
「志保さんも、お風呂入ったらどうですか?」
にっこりと言うと、むっとされた。しかし彼自身も長旅で疲れたのだろう、荷物をまとめて浴室へと消えた。
ナオコはこめかみをかいて、ドライヤーを髪に当てた。騒音にまぎれて安堵の息をつく。
昨日、オルセー美術館で『オルナンの埋葬』をはじめとするクールベの絵を鑑賞した。
クールベのある絵が好きなのだと、それだけを山田に伝えた。その絵が日本の国立西洋美術館にあることは教えていない。もちろん直接観にもいっていない。
この場所を選んだのは、ただの感傷だった。いつか彼が口にしていた願いを叶えたかったのだ。
記憶が戻ることを期待した側面もある。そしてその思いと裏腹に、記憶なんて戻らないように今現在を固定しようと旅行に誘ったような気もする。
いろんな理由が浮かぶが、どれも本質を突いていない気がした。
ナオコはただ、この地に彼と一緒に来たかったのだ。
ベッドの横に出窓があり、ワイン色のカーテンがかかっていた。もうすっかり暗いので、風景を眺めることはできない。ジュラ山脈のほうへ窓が向いており、ドゥー川が絶望的に暗く流れている様子さえも分からない。遠い地へ来た感慨だけが、彼女の心に浮かんだ。
髪を乾かしおえて、ぱたんとベッドに倒れこむ。スプリングのよく効いた良いマットだった。白いシーツが清潔で、なんとなく花のかおりがした。
目を閉じる。昨晩のことを思いだす。旅行中の沸騰した脳みそのまま布団にもぐりこむと、予想以上に彼との距離が遠かった。
急に馬鹿らしくなった。喉がかわいた気がして上体をあげると、彼がちょうど浴室から出てきた。冷蔵庫を開けたので「わたしも」と要求すると、ミネラルウォーターを投げられる。
「ありがとうございます」
キャップに手をかけるが、予想外に固い。眉をひそめて格闘していると、不意にスプリングがきしんだ。ペットボトルが取りあげられる。
山田は「本当に警備会社で働いていたのか?」と皮肉を言いながら、キャップの緩んだペットボトルを手渡した。
「本当ですよ」
「非力だな」
彼は首をぐるりと回した。こちらにまで筋の鳴る音が聞こえそうだった。
髪から水滴が落ちたので、ナオコは自分の使っていたタオルを頭からかぶせて、ふいてやった。彼はされるがままだった。
「志保さん」
「なんだ」
ナオコは口を閉じた。なにか話があったわけではない。
「……どうした?」
彼はタオルごしに見上げてくる。心配そうな瞳だけが以前と変わらない。幸福感が反転して、灰色の雲が忍びよる。窓の外が暗いせいだな、とナオコは思った。
「なんでもありませんよ」と笑い、ドライヤーを渡す。
「風邪ひきますから」
ナオコはベッドから立ちあがった。彼はなにか言いたげだったが、おとなしく髪を乾かしはじめた。
彼女は荷物の整理をようやく終えて、明日にそなえた。