愛人
懐かしくはしゃいでいるうちに夜が更けていった。ナオコはケビンに、今度は由紀恵と遊びにくるようにと約束を取りつけた。
家についた頃には、日付が変わっていた。彼女がそっと扉をひらくと、玄関の電気は消えていた。さすがに山田はもう眠っているだろう。ナオコはシャワーを浴びるのを諦め、まっすぐ寝室にむかった。
ばん、と音がして肩をはねあげる。リビングからやおら足音がして、眠っていたらしい青年が姿をあらわした。
「……もどりました」と思わず固い声で言った。
彼はぼんやりした目つきで、こちらを上から下まで眺め、ふらふらと近づいてきた。「おかえり」と、ぼそりと告げる。
視界が暗くなった。寝起きの体温が、夜風に冷えた身体を包んでいた。ナオコの右手から、バッグがどさっと落ちる。
「し、志保さん?」
彼は彼女の右肩にひたいをうずめて動かなかった。ナオコは戸惑ったが、おそるおそる腕を背中にまわした。こうやって触れるのも、記憶が失われて以降初めてだった。恋人であると体裁を整えていたが、以前よりもはるかに距離が遠かったのだ。
――――それが今、こんなに近しい。彼女の心臓は高鳴っていた。酔いが回っていく。
「戻ってこないかと」
暗がりに言葉が落ちた。
「もう帰ってこないんじゃないかと思った」
「……そんなわけないじゃないですか」
抱きしめる力がゆるんだ。彼は顔をあげて、ナオコをじっと見おろした。
「恋人なんて、嘘だろう」
ナオコは、急に遠ざかった距離に驚いた。そして、さみしそうに笑う姿に狼狽した。
「口実をつけたほうが俺が頼りやすいと思って、嘘をついてくれたんだろう?」
「そんなわけ」
「だが、震えている」
ナオコは思わず身をよじった。指先が首に触れたのだ。彼はすぐに手をひいて、眉をひそめた。
「どういう縁があったか思いだせない。だが、こういう関係ではなかっただろう?」
なにも言えなかった。彼は目をふせて、一歩後ろにさがった。ナオコはとっさにその腕を掴み、ほおに両手をあてた。背伸びをして目をとじる。
唇が合わさって、すぐに離れた。驚いた目と出会う。
「わたしがあなたを必要としているのは、本当です」
ナオコは手に力をこめた。そうしなければ、バラバラになって、もう彼が戻ってこない気がした。
「だから、嘘だなんて言わないでください」
前に足を進め、首に両手をまわす。震えているのは、彼のほうだ。そうナオコは思った。
「すまない」と小さく謝られる。手が髪の毛をなでた。
「……迷惑をかけたくないと思っている。だが、それ以上に君がいなくなるのが怖いんだ。そうやって依存しきって、呆れて、いつか君が居なくなるのも」
「どこにも行きませんよ」
と言葉をさえぎってから、ナオコは顔をゆがめた。過去に同じような会話をした。ただし立場が変わってしまった。
本当に怖いのは自分のほうだ。そう彼女は考えた。彼がなにも思い出さないで、他の女性のところへ行ってしまったら。そう考えるたびに恐ろしくて、一刻も早く記憶が戻るように望む。だがそれは、今この瞬間の幻想が消えることを示す。
どちらに傾いても、彼は離れてしまう。
恐ろしかった。それゆえにナオコは自分のシャツの襟もとに首をかけた。しかし、彼の手がそれを阻止した。苦しそうなまなざしが手元に刺さっていた。
「やめてくれ」
彼女は目を見開いて、手を降ろした。それと同時に彼の手も離れた。
気まずい静寂がただよう。
「わたしは」
底なしの穴のような廊下を見つめながら、彼女は口をひらいた。
「あなたが望むなら、なんでもあげられるんです」
――――愛も心も未来も、そんなものが自分たちの間にないと知っていた。
だからこそ、そばにいたかったのだ。
ぽた、と床に涙が落ちた。山田は表情をこわばらせた。
「なんでもあげられるから……」
ナオコはしゃくりあげた。酒のせいだ、と責任を放棄する。酔っているせいで涙がとまらないのだ。
彼は困り顔をして、それから身体を落とした。彼女は思わずのけぞったが、背中を支えられて逃れられなかった。
しばらくのあいだ、沈黙がおりた。
彼女は彼の肩を押して身体を離した。はあ、と息をついて涙目でにらむ。
「……そういうとこだけ、変わらないですね」
「覚えていないから、そう言われても分からないな」
と、本当に不思議そうに言うので、ナオコはつい笑ってしまった。
それから一カ月が経過した。梅雨を前にして、じめじめとした気候がつづいていた。
ナオコは、リビングのソファに腰かけて山田の帰宅を待っていた。記憶を失ってひと月ほどは、おとなしくしていた彼だったが今では外に働きに出ている。貯金もあるのだから無理して働かなくていいとナオコは主張したが、そもそも暇疲れする体質なのだろう。アメリカの警備会社を母体とする会社で管理職として働いていた、という実績が形だけはあったため、現在は語学力を買われて、近くの英語教室で臨時の教師として働いている。
サラリーマン経験がないのにも関わらず、ひょうひょうと過ごしている姿をみると、感心すると同時に複雑な気持ちになる。自分の存在は余計かもしれないと、ナオコは時おり思った。そのたびに卑屈な考えを振り払おうとするが、懸念はそう簡単には消えない。
机に置かれた封筒を、ちらりと見る。今日、原稿をあげた編集室の担当から譲られたものだった。中身は旅行券である。同じ出版社の旅行部門がもらったものが余ったので、よかったら使ってほしいと言われた。
封筒を手にとって、宙に透かしてみる。たいした金額ではない。だが切っ掛けにはなる。
ずっと行きたい場所があった。
背後でリビングの扉が開いた。ナオコは封筒を握りしめ「ただいま」とほほえむ顔を、キッと見あげた。驚いた様子の彼に、意を決して話しかける。




