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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
エピローグ
169/173

非恋人

 翌週の金曜日の夜、ナオコは駅前にある大衆居酒屋のカウンター席に座っていた。隣でジョッキを握っているのは、白いポロシャツからパツパツの上腕二頭筋をのぞかせた金髪の大男だ。


「ケビン、おかえりなさい」


 ビールをぶつけあうと「おう」と彼はぶっきらぼうに言った。日に焼けたせいで海外のチンピラのようだった。

 枝豆、もつ煮、から揚げ、キャベツ等をつつきながら、彼らは近況を報告しあった。


 ナオコはHRAの仲間たちの話を聞いて、

「……みんな上手くやっているんだねえ」と感心した。


「やっぱり海千山千ばかりだからかな。まだ解散して半年も経っていないのに、みんなしっかりしてるよ」


「まあ、それなりにコネもあるしな。一応警備会社っつーことでやってたわけだし、経歴もある。探せばいくらでも仕事はある」と言いながら、ケビンは肩をすくめた。




 HRA日本支社が解散したのは二月半ばのことだった。

 〈虚像〉が出現しなくなって半月あまり、ロサンゼルスの本部だけを残して、ほかの支社は解散になったのだ。あまりに早急な判断ではないかと批判も浴びたが、トップである山田秀介は断固として意志を覆さなかった。そして事実〈虚像〉も〈鏡面〉も、影も形も残さずに消えてしまった。


 ただしナオコは、解散する以前に退職を決めていた。それは山田も同じである。




 ケビンはがりがりと頭をかいて「それで?」と本題にはいった。


「最近はどうなんだよ。やつは」


 ナオコは枝豆をむく手を止めた。半分出かかった豆をさやに引っこめる。


「……元気がない」


「まあ、だろうな」


「……このあいだケビンとのメールを見て、ちょっと様子がおかしかった」


「嫉妬してんじゃねえの?」


「そういう感じじゃなくて……俺が邪魔なら、気をつかわなくていいって」


 どんどん肩を落としていくナオコを、彼は憐れむように見おろした。


「ほんっとうに難儀だなあ、おまえら」


「だって」


「しかたがねえけどよ。なんにも覚えてねえんだから」


「……」


「せめて、去年一年間の記憶だけでも戻ればなあ」


 ナオコは、ずぶずぶと机に沈みこんでいく。ケビンはその背中をたたいて、

「まあ、そう落ちこむなよ」と苦笑した。


「落ちこんでなんかない……自分がふがいないだけ」




 あの事件の後、ナオコは病院のベッドで目が覚めた。下腹部の傷が大きな痕になっていたが、他はすべてが元通りに回復していた。〈鏡面〉で倒れたはずの〈芋虫〉たちも、みんな無事だった。

 事件の全貌は、山田秀介から直接説明された。彼らは信じられない様子だったが、すべてが終わった今、なにをどうすることもできなかった。ケビンのように海外に足を向ける者もいれば、多大な慰謝料と退職金を元手に事業を始めた人間もいた。


 ひとりだけ、二進も三進も行かなくなっていた人物がいた。

 山田志保はずっと眠っていた。年が明けてようやく目を開いたとき、ナオコは彼の寝台の横で本を読んでいた。ふと顔をあげると、青い瞳がのぞいていた。ナオコは泣きそうになった。

 それで「山田さん」と声をかけた。彼は怯えたように体を引いた。


 ナオコは今でも、あの時の地面を失ったかのような衝撃を思いだす。 

 彼は一切合切の記憶を失っていた。




「……ほかの〈芋虫〉はみんな無事。〈虚像〉になっちまったやつも、戻ってきたわけだが。どうしてアイツだけ、ああなっちまったんだろうなあ」


 ケビンは、ビールをぐいっと飲んで、唇をへの字にまげた。

 ナオコはしょんぼりとしながら、今度こそ枝豆を口にはこんだ。


「マルコさんの嫌がらせかも」


「それはありうるな。あの人、巧妙な嫌がらせが好きそうだ」


 あれからマルコは姿を消した。

〈鏡の国〉が失われたわけではない、そうナオコは思いたかった。目覚めるまえに見た夢の中身を、まだ覚えていたのだ。胸の奥がちくりと痛む。


 ――――愛も、心も、未来もほしくない。


 どうして、そんなふうに答えたのだろう。ナオコは後悔していた。あの質問が山田の記憶を奪ったような気がしてならなかった。

 そしてそれは、マルコが自分に与えたチャンスであるような気もしていた。ナオコは気がつくとため息をついていた。


「やっぱり、あんなこと言わなきゃよかった」


「なんだよ、いまさら」


「ちゃんと本当のことを教えれば……」


「べつに嘘はついてねえだろ」と言って、ケビンは視線をそらした。

「それにそうやって気にかけてくれるんだろ? いいじゃねぇの」


 ナオコは額を机につけて、もう一度深いため息をついた。ほろ酔いが罪悪感を加速させる。


 記憶がなくなった後も、山田は一見して変わりないように見えた。冗談も飛ばすし皮肉も言う。そんな彼の不安をまざまざと感じたのは、初めて渋谷駅に降りたったときだった。人ごみに青ざめる姿を見ていられなくて、手をつなごうと提案したのはナオコだった。


 ―———恋人なんだから、遠慮する必要ないんですよ。

 

 そんな風に笑ってみせて、みっともない嘘だった。


「恋人ではなかったもん。あのときあの人にとって、わたしは妹でしかなかった」


「あのよ、何度でも言うがな。アタマ真っ白の状況でHRAのことだ、あいつの人生だ、おめーとのことだ、一から説明すんのは酷だって説明しなかったのは、おめえだからな?」


 ケビンは湿っぽい友人を一瞥して、ため息をついた。


「それにオレも由紀恵も、それで正しかったと思ってるぜ。ただでさえ混乱してんだ。全部話すのは、あとでもいい」


「そうだけど」


「恋人だって言ったのも、世話がしたかったからだろ。大義名分があんだから、もうグダグダすんの止めろ。見ているこっちにカビが生えそうだ」


「……そういえば由紀恵さんは? 元気?」


 ふと顔をあげると、彼はぎくりとして頬をかき、

「元気だよ」と、ぼそっとつぶやいた。


「中国語が話せるだろ、あいつ。身体を動かしたいからって、アップタウンのジムで働いてる」


「へえ」と、ナオコはにやにやした。

「よかったね」


「なにが」


「一緒にアメリカへ行けて」


「……まあ、お互いに身よりがないからな。相棒のよしみで助けあいだ。助けあい」


 ケビンの母親は三月に亡くなっていた。ナオコも葬式には参列させてもらった。それから彼は、かつての人脈と腕っぷしを頼りにアメリカでジャーナリストまがいのことをしている。今回の来日も、むこうで得たゴシップ記事を売りこむためらしい。


「夏に遊びにきたいって言ってたぜ」


「ふーん」そっぽをむく友人を、ナオコはじろじろと見た。

「まあいいや。そのときに由紀恵さんから聞くから」


「なにをだよ。おい、余計なこと聞くんじゃねえぞ」


「大丈夫大丈夫。わたしは常にケビンの味方だから」


「ぜんぜん安心できねぇな……中村は山田の世話で忙しそうだから、遊びに行くのは今度にしろっつっとくか」


「ええっ、やめてよ。二人で来てよ!」

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