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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
エピローグ
168/173

恋人

 中村ナオコは、鏡のまえでしかめっ面をしていた。淡いグレーのワンピースを着て、髪はおろしてある。胸元をすこし引っ張ってから、軽くうなずく。服装、髪型、ともに問題ない。問題があるとすれば顔だ。

 この下がった目尻が気に食わない。気弱そうに見えるのだ。

 彼女はコスメポーチからアイライナーをとりだした。今月の雑誌の内容を思いだす。左手でまぶたをおさえ、洗面台に身を乗りあげる。目を細めて、筆先をそうっとまつ毛のうえに乗せる。


「ナオコ」


「ぎゃあっ」


 がらっと音がして脱衣所の扉があいた。

 青年のきょとんとした顔が、驚きにこわばったナオコの顔の横に映った。彼はいシャツにジーンズという出で立ちだった。すっきりした風貌をしているが、髪があちこちにはねている。


「ど、どうかしましたか」と、ペンを後ろ手に隠してたずねる。


「いや、席はネットでとったのか? そろそろ出ないと」


「あ、すみません。でも髪の毛、大変なことになってますよ」


 彼は髪をかきまわして「そうか?」と首をかしげた。


「そうですよ」


「……君の顔も、たいがい大変なことになっているが」

 と、彼は鼻で笑った。


「え?」


 鏡をふりかえると、ひたいに黒い線がついていた。驚いたおりに誤って引いてしまったようだ。


「化粧なんかしなくても」と笑うので、ナオコはムッとして、


「あなたが良い年なんだから化粧くらいしろって言うんじゃないですか」と返した。


「そんなこと言ったか?」


「……言いましたよ」


 彼女はそっぽを向いた。


「席はもうとってありますから、志保さんは髪の毛どうにかしてくださいよ」


 彼は肩をすくめて、脱衣所から出ていった。

 ナオコはあらためて化粧にとりかかった。この半年ほどで、ようやく化粧が板についてきたのだ。せっかくの外出なので、先日デパート購入した口紅も試してみたかった。


 完成した顔を、まじまじと見つめる。ちょっとだけ笑う。二十六才に見えるだろうか。




 春うららかな気候に相反して、渋谷はあいかわらずの嫌なにおいがした。汗をかきはじめる時期だ。

 四月六日、土曜日。上京してきたばかりの青少年が、かん高い声ではしゃいでいる。それをうっとうしがる大人と、物珍しそうにする観光客と、ほんのわずかな地元民が、死んだ目で横行している。


 ナオコと山田は道玄坂にむかって歩いた。休日のため、人がごった返している。ナオコは右手をさしだした。「志保さん」と声をかけると、彼は少しためらいがちに手を握った。


「悪いな、いつも」


「役得だから、いいんですよ」と彼女は笑ってみせた。


 彼はあいまいに笑いかえした。ただ手はしっかりと握りしめられていた。


 東宝シネマに入ると、キャラメルポップコーンの良い香りがした。チケットを発行して、飲み物を買い、上映室に入る。後ろの真ん中あたり、一等いい席をとっていた。


 上映が始まった。一時間ほどたったとき、ナオコはひそかに顔をしかめていた。これは外れだったかもしれないと思ったのだ。右横をうかがうと、目があった。暗がりに苦笑がうかぶ。同じことを考えているようだった。

 飲み物をとろうと手を伸ばすと、優しく指が捕まえられた。ナオコの肩がわずかにはねた。ひじ掛けのうえに、重なった手が置かれた。

 彼は知らん顔をして前をみていた。

 どうすればいいか分からないまま、ナオコは映画に集中しようと努力した。


 クレジットが終わって明かりがつくと、すぐに手は離れた。彼らは沈黙したまま上映室を出た。

 エレベーターを待ちながら「微妙でしたね」と話しかけると、

「まあ、演出はよかった」と上の空の返事が返ってきた。


 それからイタリアンレストランで軽く食事をし、夕飯の買い物をこなして、マンションへ帰った。

 恵比寿と渋谷の間にあるマンションの一室に、ふたりは暮らしていた。今年の三月に引っ越したばかりだ。ナオコは去年の八月ごろ、荒れ果てたこの部屋に一度だけ足を踏み入れていたが、今となっては小ぎれいになっていた。


 リビングには、ナオコの部屋にあった家具を持ちこんでいた。テレビを囲むDVDの巨大なラックが二つと、その前にソファ。すみにある趣味の違う本棚だけは、彼の持ち物だった。


 夕飯は彼が作ってくれた。ナオコは寝室でメールの返信をしていた。

 彼女は今年の二月から翻訳会社の手伝いしていた。ニッチな映画の翻訳を主とする小さな会社だ。はじめこそ両親に頭を下げて仕事をもらっていたが、最近はようやく自分の人脈ができて、細々とだが仕事がつながっている。文章が苦手であることが翻訳においては好をなしていた。日本語に苦手意識があるため、分かりやすくしようとする意識が働く。結果として丁寧な仕事ができるのだ。


「お」

 と、声をあげる。私用のメールボックス宛てに、久しい名前がのっていた。




 中村へ



  来月、日本に帰る。飯行こうぜ。


                               相浦




 もちろん、と彼女は返信を打とうとした。そのとき「できたぞ」と寝室の戸が開いた。


「あ、はい。いま行きます」


 椅子から立ちあがりつつ、カタカタとキーボードを叩く。視線を感じてふりかえると、山田は白いエプロンで濡れた手をふきながらパソコンを眺めていた。

 そして、ふいっと目をそらして部屋から出て行った。ナオコはパソコンと彼を見比べて、少し顔をうつむかせた。送信ボタンをおして部屋を出る。


 夕飯は和食だった。味噌汁と白いご飯、焼いたサバと、おくらと白ごまの和え物、豆を甘く煮たもの。しっかりとした献立は、きちんとレシピ本を真似して作ったものだと知っている。


「いただきます」と手をあわせ、前にすわる青年をうかがう。特に変わった様子はない。あいかわらずの無表情である。


「サバおいしいですね」


「そうだな」


 紙のようにうすっぺらい返事に、ナオコは会話をあきらめた。もくもくと食事を終わらせる。


「お風呂、いただきますね」


「ああ」


 浴室に向かって湯を張る。寝室のタンスから下着をとりだし、バスタオルに包んでそそくさと歩いた。彼はソファに腰かけて読書をしていた。

 ナオコはシャワーをあびてから、湯舟で膝をまるめた。

 今日のことを思いかえす。右手を、じゃぽんと湯から突きだす。


 ――――()()()()に手をつなぐのは、あれ以来だな。


 目をつむる。いまでも彼女は、あの冬の日を思いだす。地下室のなか、ひどく寒いベッドの上で指が重なった記憶だ。あれ以来、幾度も手をつないだ。しかし、それはまったく異なる意味をもった繋がりだった。




 風呂から出ると、彼は先ほどと同じ姿勢のままでいた。


「お先いただきました」と声をかけると「ああ」と生返事が返ってくる。

 ナオコは寄る辺なく立ちすくんで、ためらいがちに山田の隣に腰かけた。すると彼はこちらを見て、すばやく立ちあがった。ナオコは目をまるくした。まるで避けているかのようなそぶりだ。


 彼はなにかを言いよどんだが、きびすを返して行ってしまった。扉がしまった音を聞いてからナオコは眉をひそめた。口をひらいて、むうっと閉じる。悪態をつきたかったが思いつかなかった。

 山田はリビングの片隅で、ナオコは寝室で寝ることになっている。いつもなら気をつかってすぐに寝室へ引っこむのだが、今日はそうする気にならなかった。

 

 彼は、すぐに風呂から出てきた。ぼんやりした様子でバスタオルで髪をふいていたのだが、ソファに座っているナオコに気づくと困り顔をした。


 それでも彼女がそこに居座ると、意を決したように横にすわり、

「悪い」と謝った。

「子どものような態度をとっていたな」


「べつにいいんですけどね」ナオコは体育すわりをして、あごに手をのせた。

「でも、ちょっと傷つきました」


「……すまん」


 彼はタオルで首元をぬぐって、申し訳なさそうに視線を泳がした。しばらくの沈黙の後、ようやく内心を吐露する。


「その、メールが気になってな」


「やっぱり」


 ナオコは不服そうに彼をみた。すると居心地悪そうに眉尻をさげる。


「相浦くん、だったか? こちらに帰ってくるなら、その……」


「まえにも言いましたけれど、あの人はただの友達ですから」


 ナオコは目を三角にして、釘をさした。


 すると彼は「ああ、いや。分かっているんだが」と、心底まいったように頬をかいた。

「しかしだな、向こうはそう思っているのか? 俺と暮らしていることで遠慮をさせているんじゃ」


「……志保さん」


 ナオコは深々とため息をついて、ぱっと彼に向きなおった。両手で頬をはさみこむと、彼はぎょっとした。青い目が不安そうに揺れた。


「あなたは、わたしの彼氏です。そんなふうに自信なさげにしないでください」


 ふたりの視線が交錯する。ナオコの手に、彼の手がそっと重ねられた。ここ半年で少し痩せて、より骨ばった感触になった。


「そうだな」と言って、彼の視線がそれた。


「ただ俺が邪魔になったなら、すぐに」


「あなたが邪魔になるなんて、ありえません」


 きっぱりと答えると、言葉はそれ以上続かなかった。ナオコは少し後悔した。彼の不安を聞いてあげなければいけないのに、どうしても苛立ってしまう。

 たまらなくなって、頬から手を離す。


「寝ようか」と優しく声をかけられる。ナオコはうなずいた。


 それきり彼は、その話題に触れなかった。


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