鏡の国のバカ
中村ナオコは『かぶらや』の席についていた。いつものとおり賑やかな空間だった。
赤い提灯が民芸調の置物を照らし、焼いた魚の香ばしい煙。その煙のせいで、他の席についている客の顔は見えなかった。
明るく雑多な雰囲気が、ナオコを取り囲んでいた。
ナオコくん。
いつのまにかマルコが前に座っていた。温かみのある木目がついた机に肘をついて、水を飲んでいる。夕暮れのような照明が彼の顔を照らしていたが、そのわりに肌色が青ざめてみえた。
ナオコは、眠りから目を覚ましたときのように、ぼんやりと彼をみつめた。記憶があやふやだった。よくこうやって彼と食事をしたなぁ、と思いだした。
彼はふんわりと笑って、
「ひとつ言っていなかったことがあるんだ」と言った。ほっそりした両手が机に乗った。
「なんでしょうか」と、彼女はこたえた。
「君が好きなんだ。すごく」
ナオコは、きょとんとした。
「告白しているんだ」と大真面目に言う。
「君の素直なところとか優しいところを、可愛いと思っていた」
彼女は少しのあいだ口ごもった。そして非常におだやかに、
「ごめんなさい、わたしも好きな人がいるんです」と返した。
照明は小刻みに左右に揺れた。時計の長針が、進むのをためらっているかのような動きだった。
マルコは大きなため息をついた。
「フラれちゃった」
「……ふっちゃいました。すみません、わたしごときが」
「いや、わかっていたけれど」
彼は首をぐるりとまわし、緊張の解けた表情で宙をみて、
「山田くんの何がそんなにいいかなぁ」とぼやいた。
「たしかに君には甘いけれど。でもさ、正直常識ないし、変なところ抜けてるし、気がつかえるタイプでもないじゃない。付きあったら大変だと思うよ」
「そうでしょうね」
ナオコはその発言に心から同意したつもりだった。しかしマルコはむっとした顔をした。
「そこが可愛い……みたいな顔しちゃってさ。まったく。女の子の考えていることは分からないね」
「はあ」
「べつにいいけどさ」と言って、ふてくされたようにそっぽを向く。
ナオコはおろおろと様子をうかがった。すると、やがていつも通りの茶目っ気のある視線が彼女に送られた。
「ナオコくんは、彼のどこが好きなの」
「え」
「だから、どこが好きなの? ぼくのこと、ふったんだから。聞かせてよ」
「ええ……」うめき声をあげて、ほおをかく。ナオコはじっくりと考えてから、
「顔」と答えた。マルコはずっこけた。
「うそでしょ」
「うそです」
「ほんとのこと言いなよ」と、彼はほおを膨らませた。
彼女はいたずらっぽく笑って「そうですねえ」と宙を見た。
「顔が好きなのは本当です。ひとりでぼんやりしているときの横顔が好きです。心をどっかに置いてきちゃった、みたいな顔するんです。あの人。それを見られたって気づいたときに、ちょっと焦って気まずそうにする。その瞬間が好きです」
「のろけちゃって」
「まあ、わたしのことを見ていないときのほうが好きなんですよ。実は」
ナオコは恥ずかしくなって、視線を落とした。
「わたしだけを見て! ってわけでもないんだ。変わってるね」
「見ていてほしいですけれど……無理ですよ、そんなの」
「そんなことないよ」
「目が合うと照れますし」
マルコは、もう一度「のろけちゃって」とため息をついた。
そして、ふっと表情を改めた。
「ナオコくんは、彼のなにが欲しい?」
彼のあごを支える指が、一度だけ、自身の青ざめた頬をたたいた。
「一個だけ選べるのなら、君は彼のなにがほしい?」
彼女は机上に、見えないカードが置かれているような気分になった。道は幾重にも分かれているようだった。
「愛がほしい? 心が欲しい? 未来が欲しい?」
選択肢が提示される。光が目のまえを通過していくような錯覚がおこり、その白っぽい帯に、かすかな未来が見えた気がした。愛を得る未来、心を得る未来、輝かしい未来だ。
彼は答えを待っていた。占い師のように辛抱強かった。
ナオコは頭を働かせようと思った。だが、なぜだか下腹部がじんじんと痛むような気がして、集中できなかった。それでたいして考えもせずに、口をひらいた。
「ほしくないです」
一気にカードが裏返ったような気がした。
「そういうものは……たぶん、あの人の中にないから」
そして自分のなかにもない。彼女はそのように感じていた。心底あいまいに、なんとなく、根拠のない感覚だった。だがそれが真実だった。
「そっか」
「ええ」
「欲がないね」
「欲深いんですけれどね、ほんとうは。でも、ないものはもらえないし」
彼は答えに満足したようだった。伝票を手に立ちあがる。
「ナオコくん」
「はい」
「今日の恰好、すごく似あってる」
身体を見おろす。スカートを履いていた。めかしこんでいたのだと気づき、照れかくしに軽くにらむ。彼はケラケラと笑った。
「これからもオシャレしてね。それで、その可愛い恰好で鏡をのぞいて」
そこに、ぼくが居るから。
言葉だけが取りのこされて、視界が白くなった。頬にだれかが触れた。すっとなぞって、離れていく。さみしかった。もう、こうやって会うことはない気がした。
だけれども、彼はきっと湿っぽいのが嫌いだろう。ナオコはそう思った。
「これからは、目じりのしわが気になるかもしれませんね」
冗談めかす。いつものように軽い笑い声がひびいた。頭がしびれていく。意識が失われる直前、ありがとう、と聞こえた。