Tell me you love me
唇が離れた。
青年の腕に抱かれた彼女は、目を閉じていた。口から血がこぼれていたが、幸せそうにほほえんでいた。
彼の目は、ほほえみを凝視していた。言葉が届いたのかどうか分からなかった。右手で頬をなぞる。青ざめた皮膚がすでに冷たくなっていた。
周囲に血の海ができていた。そのなかで人形のように立ちすくむ金髪の青年は、眼前のぬけがらを見つめて絶句していた。
山田が彼女をゆすった。そうしないではいられなかった。強くゆすって、力なく揺さぶられる肉の塊にあぜんとする。うすらいでいく生命の気配をみつめ、ふと顔をあげる。そこで初めて、弟の姿に気づいたようだった。
おたがいに言葉をなくし、山田が先に動いた。おもむろに彼女を抱きなおして立ちあがる。
すでに戦いは終わっていた。〈虚像〉はマルコの空虚な気持ちに比例して力を失い、あとに残ったのは傷ついた〈芋虫〉たちだけだ。
「……どこに行くんだよ」
よろよろと歩きだす兄に、弟が震える声で話しかけた。
「もう、この子は」
彼は止まらなかった。ぼんやりとどこかへ歩いていく。マルコがふりかえりざまに肩をつかむ。ぴたりと足が止まる。
山田は静かに口を開いた。
「〈鏡面〉を越して〈虚像〉になれば、復活するんだろう?」彼の喉から、ひゅっと音がした。
「あちらの国へ行けば、再生するだろう? 戻ってくるだろう?」
ぐったりした身体を強く抱きかかえ、愛しそうに見おろす。
「そうすれば……」
「無理だ」マルコが絶望したように言った。
「この子は〈鏡の国〉で産まれたんだよ……分かるだろ? そもそも肉体と精神のエネルギーが遊離しやすい体質なんだ。〈虚像〉になれない。そのまえに消滅する」
山田は、その言葉を聞いて真顔になった。そして首を横にふって、また歩きだした。
「おい、待てってば!」
あわててマルコが前に立ちふさがる。すると「では諦めろというのか!?」と、狂気じみた叫びをあげて、兄が弟の胸倉をつかんだ。ぶらりと力をなくした指先が揺れて、思わずふたりとも目を奪われた。
山田は手から力を抜き、だらりと垂れた指先もろとも抱えなおした。
「おまえの力なら」
と、彼は奇妙な笑顔をうかべた。
「彼女の一人くらい助けられるだろう? なあ、マルコ。君はそういう存在だろう?」
すがるような響きを帯びていく声に、マルコの顔が歪んでいく。
「この子を救えるだろう……?」
マルコは兄の腕に抱えられた女性を、はじめて直視した。いきいきとした眼は、二度と開かない。それを引き起こしたのが自分だという事実が、背中を縛りつけ、叫びたいような衝動を生む。
彼はぐっと唇をかんで、うつむいた。そして空を見あげた。
「キャロル!」
空には、いつのまにか渦ができていた。天の川のような帯が幾重にも重なり、その隙間にどんどん輝きが吸いこまれていく。それは〈虚像〉へと変わった〈芋虫〉たちの魂だった。
灰色の巨大な瞳が、青年を見つめた。そして鐘のような豊かな響きが、ふたりの青年の耳にとどいた。
「彼女を……」彼がそこまで言いかける。そのとき、より巨大な音が降った。
「愛は理由、愛は欲望、愛は祝福。愛が祝福だから、わたしは、キャロルは、愛。この時間のある宇宙の定義において、わたしは愛そのもの。あなたは、そう言った。だから」
鐘の音が鳴った。
「わたしに見せなさい、それにふさわしいものを」
ふたりの視線が重なる。
「わたしの愛を、どちらへ捧ぐ?」
青年たちは、お互いの顔を見すえた。
「俺の命をやる」黒髪の彼が、悲しみに燃える目で顔をあげた。
「それがおまえの望むものか分からない。だが、くれてやれるものは、それしかない」
兄の言葉に、弟は目を細めた。
鐘は応えなかった。
「わかった」
兄は目を丸くして、相対する青年をみつめた。弟は困り顔で笑っていた。
「こういうことか……」
「マルコ?」
金髪の青年が顔をあげる。
「キャロル、君の望むものをあげるよ」と、おだやかな声で告げる。
「この宇宙でひとりぼっちの君の、話し相手になってあげる。ぼくは君を愛するよ。君が僕に愛を捧げたように」
それは意図されていた台詞を、なぞるようだった。
彼は不思議と納得していた。頭上できらめく、この神様もどきは、知識をたくわえ、好奇心に満ちていた。シェイクスピアを愛し、人をからかう。そんな美しい銀河が欲しがるもの、その正体が彼には分かる気がした。
「ぼくが君を愛してあげる。ひとつの国としてね……だから、彼女を、この人に返してあげて」
と、弟は優しく笑った。
「この人、この子が世界のすべてなんだ」
すると、鐘が何回も何回も鳴った。
空が渦を巻く。太陽が輝いた。光が、青年たちを照らしていた。
「マルコ」と黒髪の青年が、弟の腕をつかんだ。彼の意図を、なんとなく理解したのだ。
「……君は」
ぼろぼろになった兄をみて、弟は苦笑した。
「ひとつだけ、言わせて」と、弟は晴れやかな顔で言った。
「ぼくが君をコピーしたのは、君が幸せそうだったから。君と、君の妹が、あまりに幸せそうだったから、そうなりたかったんだ。でも」
彼は素晴らしい美術品をみるときのように、ちいさな吐息をはいた。
「君たちは、どう考えてもこれから先、幸せになんてなれない」
「……」
「ずっと不幸でいてね、お兄ちゃん」
見ているから、そうつぶやく。弟はきびすを返した。
「俺は」
ぴたり、と弟が足を止める。兄は腕のなかの冷たい身体に視線を落としていた。
「おまえたちに幸せになってほしかった」
弟はふり返って、くしゃくしゃの笑顔をうかべた。呆れかえったような、嘲るような、しかたがないと諦めるような、そんな顔をした。
「いまさら卑怯なこと言うなよ」
割れたアスファルトを、彼は踏みしめて歩いていった。
「君になりたいと、そう思う時点で、ぼくは君じゃなかったんだ」
歌うように喋りながら、軽やかに進んでいく。
兄は信じられない思いで、去り行く背中を見ていた。
寒気が身体を包んでいた。空からの光が増している。地上の惨状を焼きつくすように、世界はまぶしく照らされていく。
青年は、唯一の大切なものを腕のなかに閉じこめた。
そのうち、耳元で声がした。弟の軽やかな声だった。
君の弟で、悪くなかったよ。
「マルコ」
声は風に飛ばされて、遠くへいった。世界が真っ白に染まっていく。
やがて空に浮かぶ灰色の瞳が、祝福の音をあげた。