起こしてくれてありがとう
「あ」
声が出た。声が出る機関が自分にあるということが、やおら感動的に思えるような、かすれ声だった。自分の手とも思えない手を動かす。
アスファルトが縦に見えた。視界のすみから、じわじわと赤いものが侵食してきた。茶色い靴がかすめて視界が動いた。
白い空を背景に山田の瞳が見開かれていた。唇がわななき手が震えている。そくさま火をつけられたような激痛が身体の半身を焼き、悲鳴が喉から出た。それでも痛みは止まない。出所は下腹部のようだった。
「どうして」
痛みで遠のく意識を、声が呼び止める。
「どうして」
彼はその言葉を、ひたすら繰りかえしていた。ナオコを見もせずに無我夢中で傷を抑えている。その横顔があんまりにも青ざめていたので、彼女はようやく自分の状況を理解できた。
「や、まだ、さ」
手を必死で持ちあげる。
「喋るな!」悲鳴のような叫びとともに、口を押えられる。
ジャケットで傷口を圧迫しても、血は止まらないようだった。彼のシャツの袖口が、みるみるうちに赤く染まっていく。
だれかが彼の向かい側に降りたった。金髪の青年は、ぽかんと二人を見おろしていた。
「……ナオコくん?」
青年は呆然とナオコを見つめた。彼の靴先まで血が広がっていく。
ナオコは自分の手を伸ばそうとした。気づいた彼が怯えきった表情でこちらを見た。そしてナオコの手を強く握りしめた。
「大丈夫だから、大丈夫」彼は、早口で言った。
「絶対に助かる。大丈夫だ」
それは自分に言い聞かせる言葉だった。
「やまだ、さん」
手にしがみつくと、肩を抱かれた。まだ、大丈夫だから、とつぶやいている。寒いのは自分のはずなのに、彼のほうがずっと震えていた。その首元に灰色の文様がうかんでいた。
ナオコは山田だけを見つめた。身体が遠くなっていく。意識が妙なほど明瞭だった。痛みは、遠くで鳴っている巨大な音にすぎなかった。
空が見えた。銀河がまたたく綺麗な空だった。それを背景に、嗚咽が聞こえた。
頬に一滴、なにかが落ちた。雨のように落ちてくる。ナオコは、ゆっくりまばたきをした。そのたびに痛みが引いていく。
いやだ、と駄々をこねるような言葉が聞こえた。彼女の頬を、カタカタと震える手がなぞる。
ナオコは過去を思いだした。だいだい色の薄暮に金色の稲穂が実り、青いガラス玉が転がる。かつて、その光景が、世界でいちばん綺麗だと思っていた。
いま、それがくつがえった。
青い瞳から雨が落ちていた。顔をゆがめ、唇を噛みしめている。ずっと隠されてきた透明な悲しみを、やっと見ることができた。まるで復讐の成功をなしたようだ。悲しむ彼は、なによりも綺麗だった。
「ごめんなさい」そう言って、手のひらを重ねる。
かすれた声が彼の耳にとどいた。目を見開いて冷えていく指先をつかみ、
「謝るな!」と叫ぶ。
「君が、もう謝らないと言ったんじゃないか。もう謝らないと……」
悲痛な声はどんどん小さくなっていく。
「どうして」
手を握りかえす。彼の顔色が失われていく。視界のすみ、その右手に青いナイフがきらめいている。口元が絶望にゆがんだ。静かな狂乱が心を侵食し、右手を彼自身の心臓に向けた。
「大丈夫だから」
ナオコはぼんやりとしていた。そして彼女自身も、ふとほほえんだ。
最後の力をふりしぼって、腕をその首にまわす。バランスを崩した身体が、彼女のほうへと傾いた。思いきり抱きよせて、顔を近づける。
すぐそばの青い海から涙が落ちた。唇が重なった。ナイフが落ちて、からんと音をたてた。代わりに、右手が彼女の頭を支えた。
血の味がした。それが彼のものか自分のものか、分からなかった。うすい唇が、噛みつくように侵食してくるたびに意識が遠ざかった。
銀の糸をひいて離れる。また雨が落ちた。
「ふふ」とナオコは笑った。してやったり、という気分だった。
「バカですね、だまされた、でしょ?」
赤いもののついた唇を、人差し指でなぞる。灰色の文様が薄くなっていく。
彼に生きていてほしかった。それが、どんなにか残酷だと知っていても。
視界が薄れていく。力のぬけた身体を抱きしめられる。
「ナオコ」泣き声が、ほおに触れる。
体温をなくした身体で、彼がだれよりも人間らしいと思った。もう一度、願わくばもう一度、彼に触れたかった。指を伸ばす。もう感覚がない。
声が聞こえた。
それは、ずっと欲しかった言葉だった。彼は優しいと思って、うれしくなる。最後の最期に、人の欲しいものをくれるのだ。