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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
鏡の国のバカ
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目覚めを殺して

「……わたし」


「愛しているから」


 あごに指が沿う。彼が何者なのか、ナオコには分からなかった。青い瞳は同じ色だ。透明で悲しそうな色。

 記憶が奔流のように押しよせる。血を吐くような彼の言葉、冷たい指先、それらすべてが報われない気持ちに意味を与えていた。


「わたし、あなたのことなんて愛していない」


 ぴたりと彼の動きが止まった。ナオコは目を見開いていた。口だけが勝手に動く。


「あなたのことを愛していない。好きじゃない。あなたなんて大嫌い」


「ナオコくん」


「あの人だって、わたしを愛してなんかいないんです、マルコさん」


 静かな叫びだった。白い宇宙のような街に、彼女の言葉は小さすぎた。だが青年の動揺を誘うには、十分だった。

 彼女は思いきり男を突き飛ばして距離をとった。彼はよろけた。

 ふたりの間には、いまだに戦争をつづける水面だけが横たわっていた。空に浮かぶ太陽は、灰色の眼で見下している。


「あの人は孤独だった。その悲しさをどうして愛だと勘違いできますか」


 ふらふらと立ちあがったナオコは、呆然とする男に言葉を叩きつけた。


「マルコさんの言うとおりです。わたしは酷いことをしました。きっとあの人は、わたしを憎んでいます」


 心に巣くっているのは愛ではない。それはかつてマルコが言ったことだ。飯田が言ったことだ。そしていま、自らの心でまざまざと感じることだった。

 燃え盛る地獄の窯のふちから、手を離したのだ。もう茨の道から引き返して、愛なんてたわごとを言うことはできなかった。


「わたしだって、わたしを見ていないあの人が憎いんです。だからあなたに彼の代わりは務まらない」


 彼は空虚な顔でナオコをみつめていたが、不意に笑いだした。


「あはは、最低」と、上ずった声で笑う。

「ね、ナオコくん。考え直しな? 君たちはすれ違うだけだよ。憎みあってボロボロになって、どっちもダメになる。彼をそういう風にしたいの?」


「ええ、そうです」彼女はかすかにほほえんだ。

「山田さんがどこにも行けないくらいボロボロになるのが、わたしの望みです」


「……へえ」魔法が解けたように彼の表情が冷たくなった。

「で、その代役はぼくに務まらないんだ?」


「だってあなたは違う。あなたはわたしを憎んだりしないでしょう?」


「今これ以上ないほどに君が憎いけどね」


 静かすぎる街が、よりいっそうの静謐に包まれた。


「ま、それならしょうがないや」

 と言って、宙をみあげる。半球の瞳はひとつの銀河をまとって、青年を見つめていた。


「キャロル」


 声に呼応して、鐘の響きが地を這った。ぱらぱらと砂がこぼれる音がする。コンクリートが、ビルが、看板が、渋谷の街が、作りかけの切り絵をばらまいたように剥がれ、宙に消えていく。


「しかたがないよね」


 彼の言葉が、一瞬、暗闇になった空間にひびいた。


「コピーにできるのは、あとこれだけだもの」


 ナオコはまばたきをした。目の前にあるのは同じ風景だった。白い化物と仲間たちの身体が、地面に倒れふしている点が異なった。

 勢いよく空を見あげる。空はあいかわらず白く輝いていた。


「なんだよ、アレ……」異変に気づいた何人かが、肩で息をつきながら言った。


 ぱちん、と音が鳴る。雷のように光がきらめき、一直線に飛んでくる。悲鳴をあげる暇もなく、彼らの身体を光が貫く。

 ナオコは思わず口をおさえた。血が吹き出して倒れふしていく。そうしている間にも、空から光の矢が振りそそぐ。

 彼女は周囲を見渡した。〈虚像〉はあと何体もいない。仲間たちはマルコの攻撃に気付いていない。探す。探す。ああ、居た。


 彼は巨大な猫を仕留めて、その身体を蹴り飛ばした。厳しい表情のうちに疲労が見える。首元が目にとまる。苦し気に眉をひそめて、口がかすかに開く。


 絶大な予感がナオコの背中を押した。空のかなたで、失われた国が、もっとも憎んでいる相手を見ている気がした。

 駆けだした。革靴がだれかの血で汚れている。首筋をつかむ指先が、皮膚をけずるのが分かる。苦悶の表情は、それでも確かな意志をもって、敵を探す。ああ、あともうちょっと。右腕を伸ばす。驚いた青い瞳が、こちらを見る。腕をつかむ。やまださん、と口にすると、彼はなにかを言おうとした。力のかぎり突き飛ばす。手に温度が残っていた。




 なにも聞こえなかった。閃光が目を焼いた。お腹のあたりが急に軽くなった。


 ばん、と遠くから音がした。

 


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