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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
鏡の国のバカ
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空っぽの目覚め

 マルコは腕組みをして、水面を見下していた。

 声はこちらに聞こえなかったが、ケビンが真っ青になって、なにがしか叫んだのは分かった。由紀恵が肉薄し槍を突きだす。ほかの〈芋虫〉の顔にも動揺が広がっていく。〈異常種〉たちの姿がどんどんと変化し、人間のすがたへと戻っていた。


「新藤さんは、本当に強いねえ。さすがベテラン」


「由紀恵さん……」ナオコはかたかたと手を震えわせて、水面をじっと見下ろした。

「こんな、ひどい」


「言っておくけど、これは強制しているわけじゃないよ」

 と、釘をさすようにマルコが言った。

「新藤さんは、君や相浦くん、特殊警備部の仲間がだれよりも大切だったんだ。君たちを〈虚像〉にして、こちら側に引きこむことが彼女の幸せなんだよ」


 マルコをにらみつけ、

「由紀恵さんが、そんなことに同意するわけありません!」と叫ぶ。しかし彼はケラケラと笑うだけだ。


「ほんとうに? ナオコくん、君は新藤さんのなにを知っているの? 彼女は〈鏡の国〉で独りぼっちなんだよ」

 そして、半笑いでつづける。

「山田くんの気持ちにすら気づかなかったくせに、そんなことが言えるのかな」


「それは」


「彼がどんな気持ちで、君を見守っていたか。どれほど大切に思っていたか、そんなことも知らずに、男として見ていたなんて……ひどいのはどっちかな?」


 うつむいたナオコに、追いうちの言葉が刺さる。


「汚いよねえ。彼が愛する妹を拒否できないのを良いことに、甘い蜜を吸っちゃってさ。「かわいそうな」お兄ちゃんを憐れむ気持ちはないわけだ」


 ナオコはなにも否定できなかった。わかっている。そんなこと言われなくとも、全部分かっているのだ。


「でも、大丈夫」


 肩に手がかかった。ハッと顔をあげる。涼し気な目元は愛しい人のものと同じだった。色目かしく細まり、耳元に氷のように冷たい吐息がかかる。


「ぼくは、そんな君でも愛せるから」


 鐘の音が鳴った。ナオコの視線がぶれる。息が苦しくなった。豊かさゆえに空虚な音が、頭蓋骨のなかで反響する。


「ナオコくん」


 彼の声だ。脳の芯がぼうっと浮かされる。


「愛しているからね」


 手を伸ばす。優しく握りしめてくるのは、焦がれてやまない人の手だ。思考がとろけていく。

 ふと、音が止んだ。視界の端、水面の奥底を黒い影がかけた。青い柄のナイフがひらめき〈虚像〉たちを屠っていく。鬼気迫る表情でまわりを見渡している。

 走馬燈のように、思考が逆行していく。彼の首には灰色の文様がみえる。きれいだ、とナオコは思った。からっぽで綺麗で、わたしを見ているのに、わたしを見ていないあの人が、あそこにいる。



 ぱしん、と乾いた音がした。



 そこにいたのは金髪の青年だった。彼は左側に顔をそらして、目をこれ以上ないほど見開いていた。そっと右手をあげて頬をさわる。ナオコをきょとんと見つめて、それから上をみた。


「キャロル?」と、子どものような口調で声をかける。

「ちゃんとやってよ」


「マルコさん」

 と、彼の腕をつかんだ。しかし言葉は止まらない。不機嫌そうに、

「彼女がいないと、ぼくの国は完成しないんだ。さっさと……」とナオコには目もくれずに話しつづける。


 意を決して、もう一発くらわせようと右手をふりあげる。すかさず手が伸びてきて、ものすごい力で抑えつけられた。


「あのさぁ、ふざけないで」

 彼は苦笑したが、目は笑っていなかった。

「山田くんが欲しいんでしょ? ぼくは彼だよ? なんで拒否するの? 意味がぜんぜんわからない」


「あなたは山田さんじゃない」


 手首を締めつける力が、青年の怒りを表していた。ナオコは苦悶で眉間をよせながら、彼をにらみつけた。


「あなたはマルコさん。マルコ・ジェンキンス。HRA日本支社のトップで、みんなから慕われる経営者でしょう? どうして自分を自分で信じてあげないんですか」


「分かってないなあ。ぼくはコピーであり、バックアップだ。オリジナルにこだわる必要ないでしょ? あ、もちろん君が現状の()()に満足していないなら、いくらでも改善してあげるけど」


 彼は苛立ちながらも、そう冗談めかした。ひきつった笑顔をうかべ、

「この口調が嫌? じゃあ直そうか……ほらナオコくん。おとなしくしろ」と、声色を変える。

「あまり君に乱暴をしたくない。じっとして、待っていればいいんだ」


 ナオコがひるんだのを見て、勝ち誇ったように笑う。


「これが終わったらそうだな、部屋を一緒に借りよう……もう俺たちは兄妹じゃない。君の望むことを、俺もまた望んでいるんだ、ナオコ」


 甘いささやきは、嫌になるほど心の奥をくすぐった。

 彼がひとりの男性として自分を見てくれたのならば、どんなに満たされるだろう。ナオコはそう思わざるをえなかった。それは、ついぞ叶わないみじめな欲望を受けとめてくれる誘惑だった。


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