宙の目覚め
いつのまにか、ナオコは見慣れた場所に立っていた。
東京都渋谷区、センター街。スクランブル交差点のただ中、信号機は沈黙している。乱立するビルから、明かりが漏れている。眠らない街を起こすための人だけが居ない。
「え?」身体を見おろす。特に変わった様子はない。
周囲には、だれもいなかった。電光掲示板だけが生きている。23時45分。
〈鏡面〉の中だ、と察知する。
「ナオコくん」
ふりかえると、先ほど別れたばかりの青年がいた。目を丸くして、驚いている様子だった。
「山田さん」と駆け寄ると、すぐに守るように肩を抱きよせられた。
「気づいたら、ここにいたんだが……大丈夫か」
「あ、はい。わたしは」
そこまで言って、ナオコは目を見開いた。顔をあげ、腕をふりはらう。
「ありゃ、早いね」山田がにやりと笑った。彼が浮かべることのない、愉悦の笑顔だった。
「さすが、女の子って勘が働くんだね」
距離をとる。彼はポケットに手をつっこんで、彼女をみつめた。
「……マルコさん?」
「だと思う?」
「話し方が」と指摘すると、くすくす笑われた。
「もうちょっと偉そうに話せば分からないかな? えー、ごほん」
咳ばらいをすると大股で近寄ってくる。のけぞるナオコのあごに、人差し指がかけられた。
「ナオコくん、俺がだれだか分からないのか?」
ナオコは息をのんだ。眼前の目が細まった。
「……なんちゃって」
にこりと笑って、彼は離れた。
「どういうつもりですか、これは」と、動揺しながらたずねる。
「うん? 迎えにくるって言ったでしょ」
「これが、迎え?」
「そうだよ」
彼は両手を広げて、その場でくるりと回った。
「わたしは、行くつもりは」
と言いかける。しかし人差し指を唇に押し当てられて、言葉は封じられた。
「わかってるよ。でも君は行くことになる。ぼくと一緒にね」
「なんで」
「山田くんと一緒に居たいでしょ?」
ナオコの表情がこわばる。マルコは愛しい青年の顔のまま、にこりとした。
「さっきのアレ、見ていたよ。叶わなかったでしょう」
「……」
「ずっと妹のままで満足?」
ナオコはなにも答えなかった。
そのとき巨大な音響が落ちてきた。身体の底を揺さぶるような、低く重厚な鐘の音だ。
「キャロル」と、彼が首をのばして頭上をみた。
すでに空ではなかった。銀河の奥底まで行って、くらみそうなほど明るい最果てが、そのまま存在するようだった。真ん中に綺麗な丸い石が埋まっていた。灰色の瞳が、マルコたちを見下ろしている。
「……マルコさんは、どうして向こうの世界に行きたいんですか?」
街は、白夜に包まれたように清廉な明るさを保っていた。彼は不思議そうにした。
「どうしてもなにも、あそこが「ぼく自身」だからだよ。ぼくは〈鏡の国〉そのものだ」
「それは、あなたが考えたことなんですか」
そこで、彼は「ああ」と、察したような声をあげた。
「君はマルコ・ジェンキンスっていう人格が〈鏡の国〉とは、別にあると思っているんだね」
ナオコはぎくりとした。彼の姿が、一瞬にして元に戻ったのだ。茶色い品の良いスーツ、稲穂のような金髪に、美しい顔立ちがほほえむ。
「違うよ」と、両手を広げる。
「ぼくは、あくまでコピーだ。分かるだろ? 要らなくなったバックアップ。亡くなった恋人。それが、ぼく。マルコ・ジェンキンスは、最初から最後まで〈鏡の国〉だ」
「でも」ナオコは顔をゆがめた。
「アメリカから帰ってきた後も……あなたはHRAのために働いていたじゃないですか。それが、どうして」
それだけが疑問だった。彼は、だれよりも日本支社の人々を大切にしていた。それが、いつから変わってしまったのだろう。
「〈異常種〉の出現も、本当にあなたの自由にできていたんですか? 〈鏡の国〉としての意志しかなかったのなら、もっと早く行動しても良かったはずじゃないですか」
マルコは、うすい笑みを浮かべたまま沈黙している。
「最初からなにもかも計算していたわけじゃないでしょう……? そうじゃなかったら、こんなに急に」
言葉がさえぎられた。映画のカットが急に変わるかのように、いつのまにか背後から両手を抑えられていた。とっさに振り返ると、そこには、またもや山田の顔があった。彼は艶っぽく笑んだ。
「HRAのみんなのことが、大好きだよ。もちろん。だからぼくの中に来てほしいんだ」
ナオコは、手をふりはらった。
「本当に、こんなことがしたいんですか」
「そうだけど」彼は、わざとらしく困り顔をした。「ダメだった?」
「じゃあ、ひとつ聞きます」と、息をつめてたずねる。
「どうして、いったんわたしを返したんですか。あのとき、無理やりわたしだけを連れていくこともできましたよね?」
マルコは片方の眉をあげた。
「あれ、珍しく鋭いね」
「答えてください」
ふと、彼が宙をみて「おっ」と声をあげた。
「面白いもの見せてあげる」と言って、踵をたんたんとタップする。
ナオコは、ぎょっとして足をひっこめた。彼の踵からコンクリートが波打ち、ガラスの壁のように透明になった。水面はビル群を映していた。
この場と同じ、渋谷のスクランブル交差点である。唯一異なる点は、激しい争いが発生していることだ。
「……ケビン!」ナオコは、地面に膝をついた。
騎兵銃をかまえたケビンが映っていた。傷だらけになって戦っている。相手は、牙をむいた真っ白な狼だ。狼は彼の腕に噛みつき、引きちぎろうと顎をひいた。その脳天に銃口が火を噴く。
散らばる灰色の血をふりはらった矢先、今度はマネキンのような不気味な〈虚像〉が彼を襲う。ほかの〈芋虫〉が応戦するが、〈虚像〉の振りまわす槍に邪魔されて、なかなか距離を詰められない。
やがて、マネキンが徐々に形を変化させた。ナオコは息をのんだ。
蝋のように青ざめた由紀恵が、白いスーツを着て、そこに立っていた。