轍
煌々と明かりがついていた。地下にいると、時間の感覚がわからない。
目を覚まして一番はじめに見えたのは、横顔だった。とっさに起きたことを気付かれたくない、と思って、ナオコは息をひそめた。
山田は椅子にすわっていた。デスクに肘をついて、ぼんやりとしている。きれいな人だな、と彼女は改めて思った。顔が変わっても雰囲気は変わらない。小さい頃もそうだった。笑った顔よりも憂いをこめた目蓋が映える、可哀そうな人だった。
彼の視線が、ふっと動く。
「……」
お互いに、なんと言っていいのか分からなかった。シーツをずるずると引き上げて、
「どうも」と、つぶやく。
にらまれている。気まずくてシーツを頭の上まであげる。
ためいきが聞こえた。ベッドがきしんで、ナオコは左側に傾いた。シーツがめくられた。
「謝ってくれないのか?」
彼は枕の横に腰かけて、そうたずねた。ナオコは微妙な表情をうかべて、うなずいた。
「では俺が謝る。すまない。吸いすぎた」
首元を触る。ガーゼのごわごわとした感触がした。気を失っている間に手当してくれたのだろう。
「その謝罪は、受け入れません」ナオコは横たわったまま、そう言った。
「だから山田さんも、わたしが仮に謝ったとしても受け入れないでくださいね」
彼は、しばらく憮然としていた。そして肩を落として、苦笑した。
「君はわがままだ。昔からそうだったが」
「そうです。生まれつきわがままなんですよ。だから諦めたりしません」
身体を起こそうとすると、背中を支えてくれた。その気づかいを温かく思った。
「山田さんが、どんなに怖がろうとも、わたしはこうしますから。だからいくらでも怖がっていてください」
「その言い方だと、俺が臆病みたいだな」
彼が顔をしかめるので、
「だって怖いんでしょう」と、笑ってみせる。
「……そうだな、臆病者だ」
頭をなでられた。妹扱いが嫌だったが、あまりに心地よかったのでおとなしくしておいた。
「両親が死んだときも、義父が死んだときも、怖くなかった」
ふいに、彼が話しはじめた。
「彼女、アリスのときもそうだ」
ナオコは静かに聞いていた。
「俺が止めを刺したかったんだ。スイッチ一つで殺されてほしくなかった」
「そのときも怖くはなかった?」
「ああ。悲しかったが、怖くはなかった」
目が合った。
「君がいなくなったら、俺の半分くらいが、どこかに引き裂かれてしまう気がするんだ。だから向こうへ行ってほしくない」
依存だな、とぼやく。
ナオコはきょとんとした。そして彼の肩に頭をくっつけて「へへ」と、声をたてて笑った。
「なんだ」
「うれしくて」
目をかすかに閉じると、タバコの匂いがした。
「わたしも、ずっとそう思っていましたよ」
夜遅くなったので、ナオコは山田に家まで送ってもらった。外に出ると、綺麗な夜空が広がっていた。
帰り道を歩きながら、彼女は考えた。あとどれくらい、こんな日々が続くのだろう。対策の仕様のない状況に、口には出さなくても山田は怯えているようだった。
————それでもよかった。
なにも確固たるものが決まったわけではない。それでも、彼を傷つけてでも、得たものがあった。
夜道を延々と歩きつづけていたい。手はつながなくていい。会話もしなくていい。ただ時おり吐く白い息を視界のすみに見つけて、一瞬だけ視線をかわして、ほほえんでくれさえすれば。
マンションの前に着いた。照明が玄関のなかで光って、中だけがさみしく明るかった。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「よく寝ろよ」
と、山田はきびすを返した。ナオコはすぐ背中を向けるのを忍びなく思い、後ろ姿を見送ろうとした。
二歩くらい進んで、彼がふりかえった。目が合った。顔をしかめて戻ってくる。
「どうかしました?」
彼はためらいがちに「服」と、言った。
「ふく?」
「汚してすまなかった」
セーターの襟元が血で汚れていた。いまさらなにを謝っているのか、とおかしくなって、
「いいですよ、べつに」と手をふる。
「……ああ、それじゃあ」
今度こそ去っていく。もう、ふり返らなかった。どんどん小さくなる背中を見守ってから、そそくさと玄関に入る。
名残惜しく思ってくれたのだろうか。そんな傲慢な想像をして、ナオコは苦笑した。夢は夢のままだ。
エスカレーターを待つあいだも、首元や手のひらに体温の残滓があった。
マンションの一階は、高い生垣に囲まれている。頭上に細長い蛍光灯がつけられているため、灰色の壁に、彼女の黒い影がのびていた。
静かにエスカレーターの扉が開いた。
右手をだれかに優しくつかまれた。中へ引きずりこまれる。悲鳴をあげる寸前、顔を手のひらが覆う。
「つかまえた」と、快活な声が耳元でささやく。
暴れる間もなく、視界が暗くなった。