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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
鏡の国のバカ
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分かち合わないぼくらの死

「今日のわたし、どう思いますか?」と、ナオコは勇んで聞いた。


「は?」


 ごほん、と咳ばらいをして「だから」と、やや語調を強める。


「わたしの服装、山田さんのお眼鏡にかなっていますか?」


 山田はしばらく質問の意図を掴みかねていたが、やがて口元をほころばせて、

「ああ。可愛い」と言った。

 自分で聞いておきながら、恥ずかしい。


「……ありがとうございます」


「だれかと会ってきたのか?」


 穏やかな質問に「いえ」と、首を横にふる。


「あの、ご相談があるんですけれど」


 ナオコが身を乗りだすと、

「どうした」と、彼も話を聞く体制に入った。


 ごくり、とつばを飲む。


「吸血してくれませんか」


 しん、と部屋が静まりかえった。ナオコはセーターの襟ぐりを、ぐいっと引いた。首筋がみえる。


「理由は聞かないでください。ここから吸血してくれませんか」


 彼は唖然としていたが、肌の露出を目にとめると嫌悪感を眉間にきざんで「なにを言っているんだ」と、厳しい声をだした。


「なにか意味が……」


「理由は聞かないでください」

 

 声を荒げる。山田は不審そうに顔をゆがめ、ナオコの手に指をかけた。


「そういうことをするな。女子なのだから」


「本当に女子だと思っています?」


 ぴしゃりと叩きつけた言葉は、想像以上に効き目があった。山田は手を止めて。ナオコは逆にその手のひらを絡めとり、逃げだそうとした指を握りしめた。


「わたしのこと、本当に女性だと思っているんですか?」揺らぐ瞳を、まんじりと見つめる。

「それならいいんです。そう思ってくれているなら」


 見つめあうと、お互いの瞳の色が混じって、少しずつ暗くなっていく。ナオコは泣きたくなったが、視線を逸らす気はなかった。


「血、吸えますよね?」


 子どもに言い含めるように、ゆっくりと話しかける。彼の視線が首筋に向いた。指先がもがく。わずかな抵抗だった。

「ああ」と吐息のような同意を聞いて、電流のような痛みが胸にはしった。

 それでもナオコは「よかった」と、笑った。これでようやく諦めがついた。悲しかった。だけど、よかった。気を緩ませて、手から力を抜く。


 彼は太い息をついた。指がすかさず抜かれた。肩を押される。あっというまに視点がまわる。

 視界が薄暗くなっていた。ぞっとするほどシーツが冷たい。頭の横についた両手が、肩に爪をたてていた。青年の目元に影がおちて、表情が見えなかった。


「やまださ」


「なぜ試すようなことをする?」


 怒りのこもった声に、ナオコは怯えた。彼が首をかたむけると、前髪が揺れた。右目が冷ややかに見下している。


「俺になにを求めているんだ」


 右肩に爪がたつ。思わず「ごめんなさい」と謝りかけた口もとが、抑えられた。乱暴な手つきに、ぎょっとする。張りつめた空気のなかで、鼓動だけがうるさい。わずかに彼女の耳に届いた言葉は、その音に消えてしまいそうなほど小さかった。


「怖いんだ」


 小さな声だった。口もとから手が離れ、ナオコの視界の端に力なく落ちた。


「……山田さん」


 唇は、かすかに動く。


「君の告白を忘れたわけじゃない。ずっと忘れられない。それがどうしようもなく怖い」


 平坦な声が、かすかに震えた。


「始まるものは、いつか終わるだろう」


 いつかおわる。

 そう繰り返す。ひらけた場所に独りでいるような、望みのない言葉だった。


「君を手に入れて失ったら、もうなにも残らない」


「わたしは、どこにも行きませんよ」


「ああ。そうだろうな。いまは、そう思っている」


 苦しそうに告げるセリフは、不信感に満ちていた。ナオコは悲し気に青年を見あげた。


「どうしてそう怖がるんですか」


 自然に言葉がこぼれた。


「わたしがなにもかも忘れても、あなたはそばに居てくれたじゃないですか。わたしだって、同じ気持ちなのに」


 肩を抑える力が強くなる。彼は、傷ついたように笑った。


「同じ気持ちなわけがない。暴力だろう、こんなもの」

 吐き捨てる。


「壊すことでなにが生まれる? 君は物じゃない。こんなものより、もっと大切にする方法がある。その方法をずっととってきた。それで、なぜダメなんだ?」


 自分に言い聞かせるように口調が強くなる。


「でも」と、ナオコがつぶやいた。

「吸いたいんでしょう?」


 そっと頬に手をのばす。払いのけられる痛みは、自分よりも彼自身を傷つけるようだった。


「ああ」自嘲するように口元がゆがむ。

「吸ってもいい。君が、そう望むなら」


 火がついた瞬間は分からなかった。左手が首筋に寄り、爪先がひっかいた。

 顔が耳元に寄ると、お互いの心音が聞こえる気がした。思わずナオコは膝をあげた。乗りあげてきた青年がこれ以上ないほど近しい場所に居ると気づいていた。だが触れた部分が熱くとも、布のこすれる音が掠れて響こうとも、崖から突き落とされる浮遊感が身体を包んで孤独だった。


「君を女性だなんて、一度も思ったことはない」


 ナオコは口を開こうとしたが、唇に指が当てられて、言葉は閉じこめられてしまった。


「もし血を吸ったら、俺たちは、なにも変わらないままでいられるか?」


 無垢な子どもの疑問に、大人のずるさが混ざっていた。


「君は俺のそばに居てくれるのか? どこにも行かないのか?」


 吐息が耳たぶを噛むようだった。ぐしゃり、とシーツがつぶれる。ナオコは思わず首筋をおさえた。期待と恐怖が同時に襲ってきた。


「答えてくれ」


 手がそっとはがされる。貝のように指先が重なった。よく知った手のはずなのに、違う人間の皮膚のようだ。ただ一つ言えるのは、どちらの手も氷のように冷たい。


「わたしは」


 ナオコは悲鳴をあげた。言葉を拒絶するように、皮膚に歯が食いこんでいた。身体が浮くのを青年の腕が押しとどめる。皮血が流れる。舌がすくう。一連の動作が、こうも虚しく熱かった。

 セーターが血で汚れていた。ぎらぎらした目が汚れを見て、ついで見上げた。絶望が目の奥で光っていた。


 彼女は泣きそうに笑った。


「好きです」


 青年の顔がゆがんだ。歯を噛む音が、聞こえてきそうだった。


「君は」


 憎しみが、もう一度首筋に落ちてくる。黒い髪をつかんで耐える。そうしていることが、なによりも幸せだった。燃えるように不幸だった。


「あなたが好きだから、もう、謝りません」


 ナオコは、青年の耳元でささやいた。


「嫌いになってください。わたしのこと」


 彼が離れる。頬に指がふれ、赤く汚れた首筋を伝っていく。


「どうかしている」忌々しく、つぶやかれる。


「どうかしているんだ」


「ええ、そうですよ」


 頭をなでる。可哀そうだった。可愛かった。


「どうかしているんです」


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