ぼくらが分かたれた日
その後、ナオコは井の頭線に乗って、渋谷まで戻った。温かい雨は止みかけていた。
南口を出る。途中、コンビニに寄って食べ物を買いこんだ。坂を登ると、霞んだ闇のなかに、廃墟のように佇むHRAの社屋がみえた。夜勤の仲間たちが建物内に居るはずだ。ただ、ライブハウスの熱気を浴びた体に、白亜の建物は寂しさを刺激した。
気持ちが知らずして表れていたのだろうか、山田の私室を訪ねると、
「どうしたんだ」と言う彼は、いささか心配そうだった。
「どうせご飯食べてないんだろうなあ、と思って」
わざと質問の意図をそらすと、それ以上はたずねられなかった。部屋に入ると、机は意外にもすっきりとしていた。代わりに頑丈そうなアタッシュケースが三つ並んでいる。
「先程、本社から届いた」と、ケースを親指で指す。
「で、中にこれだ」
山田が無造作に渡したのは、金の刺繍がはいった封筒だった。中身をとりだして、ナオコは思わずほほえんだ。だれからの手紙なのか、見なくとも分かっていた。
「マルコさんらしい」
「まったく」
笑いごとではないはずのに、彼もわずかに笑った。
それはクリスマスカードだった。メリークリスマスと印字されている以外は、なにも書かれていない。いたずらっぽい笑顔でカードを仕込む姿が思いうかぶ。なんともいえない寂しさが胸をしめつけた。
山田は軽くためいきをついた。潔いあきらめがあった。
「俺は、間違えたんだな」と、独りごとのように言う。
「まちがえた?」
「ああ。もっとちゃんと知る努力をするべきだった。彼がなにを考えているのか、なにを欲しがっているのか、見ているつもりだった……つもりにすぎなかった」
「でも、マルコさんは欲しいものを手に入れたんじゃ」
「君が欲しいんだろう」
ナオコは黙った。山田は淡々と話した。
「君は鏡の国で誕生した人間だ。ほんとうは、あちらに居るべき存在なのかもしれない」
空気が冷たかった。ナオコは両手をこって、ビニール袋をがさごそとあさり、サンドイッチを出した。
「ごはん、食べましょう?」
ベッドの脇にこしかけて、机にチルドカップのオレンジジュースを出す。パンとおにぎりも乗せる。山田にサンドイッチを突きだすと「どれだけ買ったんだ」と、呆れられた。
「これくらい食べられますよ」
しらっと言って、クリームパンのビニール袋をちぎった。
彼は椅子に腰かけて、まずそうにサンドイッチを見た。やがて袋を開けて、もそもそと食べはじめた。
じっと、その口元を見る。うすい唇は食生活の健全さとは遠く、パンを食む頬も鋭すぎた。食べるという行為が似あわない人だ。ナオコはそう思って、それでもその光景を目に焼きつけようとした。
「……どうして、そうじっと見る」彼は気まずそうに言った。
「なにかを食べるとこ、初めて見たなあと思って」
「そんなことないだろう」
「そんなこと、あります」
パンを一口かじる。クリームと生地が分離して、あまりおいしくない。おいしくないのがいいな、とナオコは思った。食事の似合わない青年と一緒だ。
「昔からそうですよ」ナオコはクリームパンに目を落としたまま、つぶやいた。
「山田さんは、昔からそう。わたしたちが悪いのに先に謝る。それも適当に謝るんじゃなくて、本当に自分が悪いと思っているから、いっそう手に負えないんです。こっちが謝らなきゃって思ってても、謝らせる隙をくれない」
幼い頃の話をしている、と気づいて、彼は微妙に顔をゆがめた。
「……そうなんだろうか」
「そうです。暴走気味なんです。もっと怒ってくれていいのに」
「君には頻繁に怒っただろう」くつくつと喉の奥で笑われる。
「厳しくしていたつもりだが」
少し恥ずかしくなって、
「怒り方が下手なんです」と、そっぽを向く。
「心配してくれているなら、そう言ってくれればいいのに」
「わざわざ言うことではない」
「わざわざ言ってほしかったんです」
じっと見据えると、彼は少したじろいだ。
「正義の戦いじゃないって言いますけど。でも、マルコさんと会えなくなったら、寂しいでしょ」
一拍おいて、たずねる。
「山田さんは、むこうに行かないんでしょう?」
彼はうなずいた。そして「さみしい」と、言葉を覚えたての赤子のように、一言一言かみしめた。
「さみしいから、こうやって馬鹿みたいに今更な行動をしているのか」と、今初めて気づいたかのように、ひとりうなずく。
食事の手が止まっていた。二口かじってそのままだ。ナオコはそれを見かねて、サンドイッチを奪いとった。「食べて」と、手づから突きだすと、山田は目を丸くした。
「食べてください。一人じゃ、食べられないみたいですから」
妙な苛立ちが、ナオコの腹の奥でうずまいていた。突きだす。じっと見つめる。口元がすこし開いたのを見逃さず、パンを押し出す。ためらいがちに、彼はかぶりついた。大の男とは思えないくらい、小さな一口だ。腹がたってきて、立ちあがる。
「見てられないです」
「さっきからどうしたんだ」
「わたしは、なにがどうなろうが、ここから居なくなりませんから」と、ナオコは唐突に告げた。
サンドイッチを突きだして、にらみあげる。
「だから食べてください。口は、食べるためについているんでしょ?」
いつかの彼の言を引用する。山田はぽかんとして、それから肩をふるわせた。口元を手の甲でおさえて、笑いをこらえている。
「……なんで笑うんですか」憮然として、それでも手は引っこめない。
「いや」彼は、サンドイッチをそっと掴んで、食べた。
「懐かしくてな」
目元をゆるめる様子に、心のべつの場所が痛んだ。
「覚えていないかもしれないな。君は、独りで食事をするのが嫌いだった。いつか俺とマルコが喧嘩をして、食卓に現れなかったんだ。そうしたら駄々をこねて、一口も食べない。ほとほと困って、仲直りをせざるをえなかった」
うれしそうに話す。彼のなかでは、幼いころの記憶だけが輝かしく保存されている。まざまざと見せつけられた気になった。
ナオコは表情を変えないように努めた。だからなんだ、と口のなかで一度だけつぶやく。
パンを素早く食べおえ、ジュースで飲みほす。山田が食べ終えたことを確認してから「山田さん」と、話しかける。