灰のなかの火
その三日後。事態は停滞している。新型の精神分離機の流通を止めようと、山田が各支部に働きかけていたが、その反応は芳しくない。というのも、試しに〈鏡面〉内で分離機を使用したところ、目立った支障はなかったそうだ。
そうなってしまうと、手立てがない。こちらとしては、マルコの出方を伺うしか方法がなかった。〈虚像〉もあいかわらず出現していない。
後手後手に回っていることに苛立つケビンに、山田が釘を刺した。
「これは、正義の戦いでもなんでもない」と言い切ったのだ。
「仮に「なにがあろう」とも、それを止める資格がある奴はいない。だから、もしなにがあったとしても、相浦、おまえも無駄に抵抗はするな」
「なんだそりゃ」と、彼は余計に腹をたてたようだった。
「もしマルコが精神分離機を利用して、〈芋虫〉を一気に〈鏡の国〉に引きずりこもうとしたら、抵抗するな、と言っているんだ」
マルコは、あのとき「迎えにいく」と言っていた。近いうちに、彼がその計画を実行することは予測できる。
「むこうも、そんなに悪くないと思うぞ」
青ざめる二人をみて、山田は笑った。
「平和だし、そうだな」ナオコの目をみて、笑みが深くなる。
「夕暮れが綺麗だ」
午後二十時、ナオコは下北沢に居た。せせこましい階段を降りて西口を出る。三連休中日で、人手が多い。うっとうしい様子の雨に、すぐに地下に潜るつもりで、傘をささない人も多かった。
踏切を渡り、商店街の間を進んだ。クリスマスイブ前日にして、カップルの姿も多い。少し暑いな、とナオコは思った。仕事終わりに、スーツを私服に着かえていた。白いセーターにベージュのスカートを履き、紺色のダッフルコートを羽織った。
デートめいたいでたちの彼女は、群衆にのまれた。しかし、だんだんと薄暗い路地に入るにしたがって浮いてきた。パンキッシュな若者やグランジを気取る壮年の人々は、その退廃的な態度とはうらはらに、仲睦まじげで浮かれてみえた。
とあるビルの前で立ち止まる。雨に濡れないように、ひさしの下に黒板が置かれていた。日曜日の出演バンドが書かれている。バンド名を確認して階段を下りた。
「こんちわ」と、愛想のよい金髪の青年が受付をしている。
「こんにちは」
と返し、チケット代の三千円をトレイにのせる。ドリンク代込みで、五百円のおつりをもらう。
「……おねーさん、はじめて?」
「え?」
「たっつんの彼女だよね?」
青年は、にこにこしながら頬杖をついた。ナオコは苦笑して首を横にふった。なんらかの事情を察したのか、彼は肩をすくめて「扉、しっかり閉めてね」と一言つげ、チケットを渡してくれた。
「どうも」
観音開きの扉に手をかけると、不思議と胸が高鳴った。
一枚目の扉をあけ、中に入る。地響きがする。黄色い悲鳴と、くぐもった歌声が聞こえる。二枚目の扉をあけると、レーザービームのような白い光が暗闇を貫いていた。
ステージの上に、四人の男女が立っていた。ちょうど曲が終わったのか、興奮冷めやらぬ様子の観客が口々にメンバーの名前を呼んでいる。
ナオコは、会場の後方に立ってステージを眺めた。
「メリークリスマス!」とボーカルが告げると、酔っ払いの客が馬鹿声で「めりーくりすます!」とかえす。
高い笑い声とよろめき。客がざわつく。
ボーカルの男性は、汗をぬぐって、
「まだクリスマスじゃないけどね」と笑った。
「でもどうせみんな、明日も明後日も独りなんだろ?」
冗談めかして言うと、
「おまえもだろ!」と、客がふざけて叫んだ。
ボーカルの青年は笑いながら、隣でチューニングをしていたギターの男性と顔を見合わせた。
「そうだけどさあ。あ、でも絶賛彼女募集中なので。今日からなってくれる人がいるなら、明日は一緒に過ごしましょ」
笑いをさらって、一息つく。「たっつん、腕、大丈夫―?」と女性ファンらしき声がした。ナオコは、彼の右肩に視線をむけた。
「大丈夫だよ!」と彼は袖をめくって見せた。引きつれたような傷跡がのぞいた。
「名誉の勲章なので、みんなでたっつんを称えてくださーい」と、ギターがうそぶく。
笑いがさざめきを生み、ついで、次の曲に入った。
ナオコは、じっと真ん中の青年をみつめていた。彼は客席を見たりバンドメンバーをふりかえったりしながら、楽しそうに歌っていた。
一時間後、彼らの出番が終わった。ナオコはすぐに会場を出た。すると階段脇の控室から、ちょうどメンバーたちが引き上げるところだった。彼女は顔をあげないまま、階段に足をかけた。
「あ、ちょっと」と、声がかかる。ドラムを叩いていた小柄な女性が、ナオコを見上げていた。
「あなた、えっと」
他のメンバーは怪訝そうにナオコをまじまじと見て「ああ」と、得心した。
「たっつんの」
「うん、えーと、中村さんだよね? 来てくれたんだ」
「美奈ちゃん、知り合い?」と、ボーカルの青年が話しかけた。
メンバーが目を丸くした。ナオコが瞬時に口をはさんだ。
「歌、すごくよかったです」
感想を言うにしては、鋭すぎる声だった。鶴の一声のようなナオコの言葉に、彼らはびっくりしていた。
「すごく……うん、よかった」
ナオコは、それ以外に言葉が見つからないもどかしさに、こぶしを握った。こちらを怪訝そうに見る気配に冷や汗がでる。
意を決して顔をあげる。ボーカルの青年は、その誠実そうな面立ちを疑問でいろどっていた。
「その、勇気づけられました。背中を押されるっていうか……応援しているので、これからも頑張ってくださいね」
ナオコは笑った。すると青年は一気に顔を赤らめて「それは、どうも……」と、頭をかいた。
他のメンバーは、頭上に疑問符を浮かべていたが、口をはさまなかった。
「また、よかったら来てください」
ステージ上の勢いはどこえやら、彼は頭をかいて、ナオコに微笑みかけた。
「もちろん」と、ナオコはうなずいて、軽く会釈をした。そして今度こそ、階段をあがっていった。
背後から、こそこそ話す声がした。おい、たっつん。どういうことなんだ。え、なに? あの子、おまえの知り合いっつーか。もうタケちゃん無粋だよ。やめよ。やめよ。てか寒いから、早く中入ろうよ。
ナオコは一回だけ、ふりかえった。
彼はこちらを見上げていた。目があうと、ちょっとだけ笑う。ナオコは胸をおさえて、息をつまらせた。深呼吸をして「ありがとう」とつぶやく。届いているかは分からない。ただ、言わなければならない言葉だった。
青年は、一瞬はっとして、そして以前と同じ優しいほほえみをうかべた。