ほどなく鈍感であれ
ケビンはナオコの態度にためいきをついて、人差し指をつきたてた。
「おまえら、噂になってるからな? 兄妹なら兄妹、恋人なら恋人でちゃんとしてくれよ。こっちの気がもたねえ」
ここ五日間、山田とナオコの関係は、奇妙そのものだった。昨日の朝の出来事を思い返す。オフィスで、ちょうど山田と鉢合わせた。
「山田さん、顔色悪いですよ。ご飯食べてます?」と声をかけると「君こそ」と、いつもの通り心配をはねのけられ、逆に調子を案じられた。「すこし痩せたんじゃないか」
そこまでは良かった。そこまでは。ナオコは遠い目をした。
彼の指先が、ふいっとナオコの頬に触れた。ちょうどトレーニングルームから帰ってきた同僚が横を通りすぎた。
「もう少し丸くなっても、可愛いと思うが」
同僚が青ざめた。宇宙人でも観たように目を白黒させて、書類をつんだラックに衝突する。周囲のデスクを利用していた仲間たちの文句が聞こえた。
ナオコは口をぱくぱくさせた。
「ええと」まごついてから、息をつく。
「少しは休憩してくださいね」
「ああ、ありがとう」
そのまま何事もなかったように、彼は立ち去った。残ったのは、好奇心と野次馬根性に満ちた同僚の視線だけである。
それだけではなかった。廊下や玄関、オフィスで会うたびに、気に留められていると分かった。顔つきが以前と圧倒的に違うのも原因だ。ぴんと張り詰めた表情を崩さなかったのが、人前でも優しく笑うようになった。
「中村がパワハラに耐えかねて、懐柔する呪いをかけたんだって言ってる奴がいたが、まじでソレを笑えないレベルだからな」
ケビンはうんざりしたように言った。
「そんな呪いがあるなら、とっくのとうに使ってるよ。それに懐柔したんじゃなくて……」
肩を落とす彼女に、ケビンは同情と苦節のまじった視線をむける。
「タッカーには、あんな感じだったわけだが。しかしクソシスコン野郎だってことには、変わりなかったってわけだ」と言って、目を回した。
「しかも肝心の妹は、それが嬉しくないと」
「……」
「まあ、分かるけどよ」
ケビンはがしがしと頭をかいた。
「今までアイツがお前にしてきたこと、全部おまえが妹だからの一つで片付けられんのかっつー話だよな」
「同じ男として、どう思うの?」と、ナオコは前のめりになってたずねた。
「あー」あごをかいて、視線を泳がす。
「わからん。おまえらみたいな特殊な状況下になったことがねぇ。だいいち俺は兄弟いないしな」
ナオコはしゅんとして、
「……山田さんは、きっとこれまで、すごく気を張り詰めて生きてきたんだろうなぁって思うの」
と話しだした。
「あの人だけ、すべてを忘れないで生きてきたんだよ。だから今、同じ場所にわたしが来て、記憶を共有することが、どれだけ懐かしいものなのか想像がつかないんだよね」
それは、いつだったかリリーに対して思った、傷の共有に通じることだった。
ナオコは、キャロルの考えに基づいて、記憶を消して現実世界に戻された。
マルコは、HRAに捕まったが、彼が〈鏡の国〉の意志であることを案じて記憶を消され、アルフレッドの元に預けられた。
山田だけが、すべてを覚えたまま生きることを強いられたのだ。心を折るために、あえて残された記憶だった。
「まあ山田が、おまえを死ぬほど大切にする気持ちは理解できる」
と、ケビンが話しだした。
「だが、それで中村の気持ちを無視できるのかっつーのは、俺にはわからない」
ナオコは、今年の夏の出来事を思いだした。山手線にて、山田と横並びにすわり、なんてことのない会話をした。恋愛なんて無意味であると彼は話した。
知らず知らずのうちに、唇を噛んでいた。彼にとって自分の気持ちは、ひどく軽薄なものだ。そしてそれを否定する材料は、ナオコにはなかった。彼の愛情をねじ伏せる身勝手なものではないと、どうして言えるだろう。
「……あんま落ちこむんじゃねえよ」
と、ケビンが気づかわしげに言った。
「ひとつ言えるのは。そうだな……男なんて、たいして分かっちゃいねえっつうことだ」
「どういうこと?」
「由紀恵の口癖だが」
と、前置きして目をほそめる。ナオコは、彼の記憶にも懐かしいほほえみがあるのかもしれないと思った。
「男ってのは、おまえら女が思うよりも、遥かに鈍感なんだとよ」