鈍感にもほどがある
株式会社の体裁をとっている以上、HRAの年末は忙しい。事務作業は保全部が管轄しているが、常駐警備部、特殊警備部に関しても、書類が増える時期である。
それゆえにオフィスには退屈が満ちていた。ため息ばかりが落ち、キーボードを叩く音もむなしい。外に出て武器をふるうことを生業としてきた血の気の多い人間ばかりである。全員で雁首をならべてパソコンに向かうのは違和感しかない。
「……平和すぎ」と、だれかがつぶやいた。
「いいじゃねえか、平穏。平和。いまよその人間がきても、フツーの会社に見えるぜ」
「まあ、こういうこともあんだろ。手ぇ動かせよ。また保全部にどやされんぞ」
ナオコも眉をひそめてパソコンをにらみつけていた。しかし余計なことが頭をよぎって、まったく作業に集中できない。
あの後ひと眠りしてから、いつもどおりに出勤した。目が覚めるとすでに山田はおらず、ぬくもりだけが残っていた。顔をしかめてキーボードをたたく。
隣席のケビンも退屈そうに頬杖をついていた、片手で文書を打っては消し、打っては消している。
空港での事件のあと、一番いろめき立っていたのはケビンだった。マルコに攻撃されたのだから当然といえば当然である。山田の説明を受けいれ、ほかの〈芋虫〉にも黙っておくとの指針に同意したことはありがたかったが、いまだに納得いかない部分もあるようだ。
彼は憮然とした表情で「やるせねえ」とつぶやいた。そして声を低くして、
「悪代官の正体がわかってんのに、お上に黙ってる水戸黄門の気分だぜ」と悪態をつく。
「なに、その例え」
「悪ぃやつが分かってても、じっとしてなきゃならんのが、歯がゆいっつってんだよ」
彼は魂ごとぬけそうなため息をついて、机に頭をふせた。
「……山田さん言ってたでしょ。下手に動いて支社を混乱させるのが、一番まずいって。なにかあったときに、わたしたちが動けないといけないんだから」
ほかの仲間に聞こえないように、小さな声で注意する。
「そうだけどよ」
こそこそと話す。
「アメリカまで追っかけて、討ちとったり! なんてできねぇことは分かってる。でもよ、こっちは攻撃されてんだぜ? なんかなあ」
「……ケビンは、むこうに行くつもりないんだもんね」
彼はなにを言っているのだ、と言わんばかりに顔をしかめ、
「当然だろ? 行く意味がない」と、断言した。
「由紀恵さん、居るって言ってたんでしょ」
「だから、なんだよ。あいつは死んだんだよ。それにしがみついて、間違ったことをするつもりはない」
ケビンは馬鹿にするなと言わんばかりに、鼻をならした。彼らしい正義感にあふれた解答だった。
「そっか」と、うなずく。
ナオコには、ケビンの潔さがまぶしかった。もし自分が彼の立場であったら、由紀恵に会える可能性に揺れるだろう。
話をしていて、仕事が進むわけではない。おのずと会話が終わり、ケビンは嫌そうにパソコンに向き直った。
ちかちか光る画面を眺めながら、ナオコは映った自分の顔を眺めた。
首をふって、両手をキーボードに置く。マルコがやろうとしていることが、そもそも間違っているのかすら、分からない。苦しんでほしくない、とだけ思うのだ。マルコにも、ケビンにも、そして山田にも。
その気持ちを抱いたところで、どうにもならないと知っていても。
正午すぎケビンに「ちょっと休もうぜ」と、食堂に誘われた。
生姜焼き定食を頼んで、壁際の席にすわる。ほかの席についている常駐警備部や保全部の人々も、なんとなく浮かない顔であるように見える。彼らの仕事は〈鏡面〉の管理であるため、仕事の内容自体は変わらないが、〈虚像〉の不出現がこうも続くと、張りあいがないのだろう。
「〈虚像〉の出方も、あの人のさじ加減一つなんだろ?」
ケビンの前には大盛のカレーがあった。スプーンで一口すくいながら、不愉快そうに眉をひそめる。
「そう考えると、これまでの異常種の多発とか、それ以外の……なんだったか? 妙な現象もぜんぶ操ってたっつうことか」
「そうとは限らないんじゃないかな」と、否定するが、声は自信なさげに響いた。
「マルコさんは、たぶんHRAの人たちのために、なにかをしたいと思っていたんだよ」
「なんだよ、その楽観」ケビンは呆れ顔をした。
「それは、あれか? 中村の過去的に、そう思うっつーことか?」
ケビンにも事のあらましは話してある。彼は突飛な真実にたいして半信半疑の様子だったが、山田とナオコのあいだで同意がとれていることを確認すると、驚きながらも信じた。
「ううん、そうじゃなくて……マルコさん、本当にこんなことしたいのかな」
説明のつかない気持ちがナオコの胸中にうずまいていた。
彼と〈鏡の国〉が同じものである。それは真実なのだろう。だが、それが彼の自由意志と合致しているように思えない。マルコはマルコで、なにか考えがあるのではないだろうか。
そう考えてしまうのは、義理の父親であるアルフレッドやHRAを大切にしたいと笑う青年のすがたが、記憶にあるからだろうか。ナオコは沈んだ面持ちで考えつづけた。
ケビンは鼻をならして「まあ、わかんねえけどよ」と仕切りなおした。
「中村、おまえはどうなんだよ」
「え?」
「だーかーらー、山田のこと、すっぱり諦められんのか?」
ナオコは、口をつぐんだ。あきらめられるよ、と言いかけてやめる。
「さあ」と、肩をすくめる。
「なんだよ、さあって。気味悪ぃから、さっさとどうにかしてほしいんだよな」
ケビンがにらみつけたが、ナオコは素知らぬ顔で水をのんだ。