夢知らずして
「そうですか」と、冷たく吐いてしまう。
ナオコは山田の手から、コーヒーカップを取りあげた。目を丸くしているが抵抗はしない。愛しい妹にたいして、彼は驚くほど無防備だ。コーヒーが冷めていく。
「どうした?」透明なほほえみが向けられた。
「君も眠いんじゃないのか……目が半分開いていないぞ」
遠慮ない手つきで、目元をなぞられる。たしかに少し眠い。ベッドにはまだ彼の体温が残っていて、寒さで覚醒していた脳みそを、再びとろけさせようとしている。
「ええ」思いきって彼の肩を借りた。
「ねむいですね」
「そうだろう」
かすかに嬉しそうな声だった。彼は毛布をたぐりよせ、ナオコの肩にかけた。
「出勤まで、まだ時間があるんだ。寝てていい」
「……山田さんも」
と、カップを机の上に置く。ナオコは甘えかけるように彼のシャツをつかんだ。
「山田さんも、まだ寝てましょう?」
ベッドに足をあげて、まぶたを落とす。瞳の中が、とろんと溶けていた。冷めたコップに黒くこびりついた液体に酷似している。
山田はきょとんとして、肩口をつかむ指を見た。邪気なく笑い、
「そうだな」と、答える。
ナオコの肩が押された。倒れたふしにマットが鳴り、男性の重みによって、もう一度悲鳴をあげた。寝ころがった彼は、子どもをあやすように妹の頭をたたいた。
「君はぬくいな」
「……それは、どうも」
「ああ」
抱き枕でも抱くかのように腕がまわされる。寝返りをすると、恐ろしいほど子供じみた表情で髪を分けられた。
「寝ろ」と一言つげ、頭を抱えられる。
ナオコは思いだした。
そうだ、幼いころ、こうやって昼寝をするのが常だった。「おやすみ」とつぶやくのは彼が先。眠るのも彼が先。それが不満で、何度もゆすぶって起こすのだ。そうすると、ぼんやりとなだめるように頭をなでて抱きしめる……愛おしい妹のために。
記憶の残像を打ち消すように、目をとじる。
こんな状況でも、心臓の音はよく聞こえる。とん、とん、とナオコの奥をノックしている。
「ね、山田さん」
「なんだ。寝ないのか」
「聞きたいことがあるんです」
顔をあげる。彼は目をしばたたかせて、小首をかしげた。前髪がひと房落ちたのをすくってやると、腕が挟んだ分によって距離が離れた。
「なんで、わたしのこと助けたんですか」
と、まどろみながら質問する。そうすれば深刻に聞こえないだろう。そんな卑怯な考えがなかったとは言えない。
彼は、一気に眠気がとんだのか、しんと口を閉じていた。
「どうでもいいと思っていたんでしょう? じゃあ、わたしがマルコさんに連れていかれようと、よかったじゃないですか」
「……君のメールを見て」
ゆっくりと唇がうごいた。
「俺は君を信頼したいと思ったんだ」
「そう言っていましたね」
「ああ。だが結局のところ、できなかった」
ナオコは、意表を突かれた。眠たそうな演技も忘れて、
「なんで」と聞く。
「どうしてだろうな」と、視線をそらし、
「なぜそんなことを聞くんだ」と逆にたずねる。
「気になって」
「マルコと一緒に行きたかったのか?」
と、冗談めかす口元に、彼らしくない諧謔的な笑みがうかぶ。
「それなら、今からでも遅くはないが」
「本当に信頼していないんですね」
皮肉交じりに、半笑いをうかべる。彼は笑みを深くして、もはやなにも言わなかった。
胸の奥がもやもやして、ナオコは唇を噛んだ。無口になった青年が、どこかで傷ついていることを察していた。
「悪い」
彼は長兄らしい穏やかな表情にもどっていた。ナオコは、彼に先んじて謝らせたことを後悔した。
「嫌な言い方をしたな……君を信頼したくないわけじゃないんだ、本当に」
「そんなの分かっていますよ」
「ただそうだな、少し不安なんだろう」
まるで他人事のように、内情を吐露する。ナオコは顔をゆがめた。
「いろいろと物事が重なって安定していない。だから」
「ねえ、山田さん」と、言葉をさえぎる。
ナオコは上体を起こした。腰をあげて、すこし上に体勢をずらす。そして再び横になって、青年の頭を抱きしめた。彼はぎょっとした様子だったが、おとなしくしていた。
「甘えていいんですよ」と、口からすべり出る。
「わたし、あなたの妹ですよ? だからもっと甘えていいんです」
話すほどに、心が悲鳴をあげる。だがなによりも、彼に安らかであってほしいと思った。「兄妹なんだから」と暗示のようにくりかえす。
ナオコは固い髪の毛を触って、彼に見えないよう唇を噛んだ。不安や苦しみを自覚できない人なのだ。自覚しても、口にできない人なのだ。
それが悲しく愛おしく思えた。自分が大切にしてやらなければ、この青年が壊れてしまうような気がした。
「わたし、どこにも行きませんから」と言って、頭をなでる。
彼は、小さく息をはいた。低く笑う。
「……心音が早い」
「え?」
「慣れていないんだろう」
色目かしい視線が、ふいと交わされる。
「すまんな」
ナオコはぼんやりしてしまった。妹としか認識されないと分かっている。それなのに時折こんな笑みを見せるから困るのだ。
山田は目を閉じてそのまま眠ってしまった。眠りにつくのが早いな、と思いながら、黒い髪をもてあそぶことしかできなかった。