夢か鬱々
――――迎えに行くよ。
〈虚像〉がひしめきあう飛行場の中心で、片手をふるマルコの笑顔を思いだす。
彼が〈鏡の国〉の意志であるなんて、いまだに信じられなかった。ナオコは、あの日渡された山田理沙の日記を思いだした。愛情に満ちた文章から伝わる、異常事態への混乱。彼女もいまの自分のように戸惑っていたのだろうか。
空港の事件の直後、山田は本社に連絡をした。新型の精神分離機に著しい不備がある。絶対に山田秀介にマルコ・ジェンキンスを近づけるな……。
しかし、すでに遅かった。先日、本社から通達が届いた。
『新型精神分離機の実用化を行う。至急、各支社の特殊警備部は新型に切り替え、職務に当たること』
あまりに唐突な通告だった。
各支社に連絡はとった。新型の精神分離機には不備がある。通達があっても使うな。そんな忠告が焼け石に水であると、山田自身が理解していた。
職務にも異常が発生していた。あの日以来〈虚像〉が出現しなくなったのだ。日本だけではない、世界各国でおなじ状況が確認されていた。
かつてない事態だったが、本部からの連絡は「これまで通り警戒を怠るな」と一言だけ。一週間あまり、HRAはこれまでにない奇妙な退屈のなかにいた。
山田は、いまだにあちらこちらを飛びまわっている。マルコの代理をつとめ、さらにその合間をぬって、各支社にひそかに連絡をとろうと奔走している。
ただ彼の努力もむなしく、経過は不透明なままだった。マルコの行動が読めない以上、下手に〈芋虫〉たちに全貌をあかし混乱を招くことはできない。
日本支社には、新型の精神分離機を導入する気はない。
ただ、その理由を明かすことはできないまま事態は膠着している。
ナオコは二日前にした会話を思い出した。
「マルコの目的は、鏡の国の再建だ。それにHRAを利用しようとしている」と、山田は話した。
「彼とブージャムたちが、あちらへ行きたいのなら、それでも構わないんだ」
「……〈芋虫〉が利用されても?」
「ほかの人間がどうなろうと、知ったことではない」
そう言って、苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「止める気はなかったんだ。彼らには彼らの主張がある。俺のやるべきことは、マルコを守ることだけだ」
ナオコはだまっていた。山田の表情に苦渋がうかんだ。
「だが」
その先の言葉は、あかされなかった。その代わりに、
「〈芋虫〉には身よりのない連中が多い。もしかすると、彼と共に〈鏡の国〉へ行くと言い出すやつもいるかもしれない」と、つづけた。
「それって、正しいことなんですか?」
「正しいもなにもあるか」
と、彼は苦笑した。
「ただ、無理強いはさせない。マルコにそのつもりがあるのなら、俺にできることをしないといけない。今はそう思う」
あの日の諦めきったほほえみを思いだしながら、ナオコは物思いにふける。
――――もしこれが、スーパーヒーローの物語なら。
いつかマルコと交わした会話がよみがえる。自分の都合によって異世界に仲間を連れ去ろうとする「敵役」をやっつけなければいけないのだろう。
だが、現実は違う。〈鏡の国〉にだれかが行こうと自由意志の元に行われるのであれば、止める権利はない。そもそもHRAという会社自体が、非人道的な行いに基づく組織だ。それが壊れようとも、なんら問題はない。ナオコは、そう思った。
山田が奔走しているのはマルコのためだ。弟が間違った方法をとらないように。その願いをもって、彼は必死で動いている。
それゆえに、ナオコはひとつだけ疑問に思っていた。
「お兄ちゃん」
山田の肩が、びくっとはねた。ナオコは壁に背中を預けたまま、急におどおどしだした青年に目をすえた。
「……おにいさん? にいさん?」
彼は眉をひそめた。沸騰したやかんのように耳が赤くなっている。
「だから、以前と同じで構わないと言っているだろう」と、きつく言う。
「はあ」と、返事ともつかない答えをして、膝をかかえる。じいっと見つめる。
山田は気まずいのか、コップの中身を一気に飲み干した。
「二十六にもなって、お兄ちゃんって呼び方も子どもっぽいですかね……」
ナオコは、真顔だった。
「兄さん」
「いい加減にしろ。からかっているんだろう」
「ええ、からかっています」
ぴしゃりと言うと、彼はむせた。
「だって、ぜんぜん慣れてくれないんですもん」
「それは」
「妹だって思うなら、それらしくしてくれて良いのに」
山田は口を閉ざしてしまった。不機嫌そうな表情だが、目元が赤い。かわいい、と胸に去来したときめきが、すぐに虚しく冷める。
「だから」と、彼はつぶやいた。
「だから?」
「……慣れないんだ。ずっと、こうなればいいと思っていたにしても」と、ぼそぼそ話す。
「君が思いだしたなんて、いまだに信じられない」
冷静さを保とうと息をはき、こちらをちらっと見やる。気恥ずかしそうな姿は、記憶を取り戻す以前のナオコには、絶対に見せなかった顔だった。
いや、と内心で首を横にふる。これまでも年相応の柔らかい表情は、影だけ見えていた。ただそれすら、妹にたいして向けられたものだ。