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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
鏡の国のバカ
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夢かうつつか

 十二月二十日。中村ナオコは、冷え切った手のひらをポケットにつっこんで、いそいそと歩いていた。朝のきんと冷えた空気は、一つ結びにした毛先まで凍るようだ。

 早朝5時、HRAの社屋も朝日をまちわびているように思える。厚手のコートを着込んだ警備員に会釈をして、駐輪場の奥へとむかう。


 物置の裏手にまわり、生垣をくぐって公園へ入る。四角く囲われた空を見あげると、夜明けの空はきれいだったが、どの季節よりも遠い場所にあるようだ。

 マンホールをずらし、はしごを降りる。ナオコは「さむいさむい」と独り言をいいながら、地下道を早足で進んだ。

 扉の前に到着した。白い息をひとつつき、ひんやりした取っ手を握る。音をたてないように開くコツをつかんだのは、ごく最近のことだ。


 部屋はあいかわらず殺風景だったが、散らかっていた。黒いジャケットは椅子に放られ、靴も左右バラバラに脱ぎ捨てられている。

 抜き足差し足で、ベッドに近寄る。横向けに青年が眠っていた。布団すら被っていない。倒れこむように眠りに落ちたのか、左足がふちから落ちそうになっている。


 静かな寝息を耳にして、ナオコは胸をなでおろした。この風景を目撃するのは初めてではないが、毎度毎度死んでいるのではないかと不安になる。

 足元でくしゃくしゃになっている布団をかけてやり、その場でしゃがみこむ。目元を前髪が隠している。髪を分けてやりたい衝動と戦って、折衷案として、シーツの上にぱたんと落ちた手のひらに、ほんの少しだけ触った。予想外のぬくもりに、指をひっこめる。動かないはずの手が小指をつかんだ。


 焦点をなくした青い目が、こちらを見ていた。

 沈黙。

 ナオコは、いったんは緊張した面持ちをやわらげて、今度こそ青年の前髪を分けた。


「まだ寝てていいんですよ」


 小指を離した、と思ったら、今度は手のひらを握ってきた。やはり温かい。彼は顔をしかめた。

「冷たい」と憎々し気に言い、氷のような指先を包みこむ。


 まぶたが閉じる。まだ寝ぼけているのか、低くうなって「なぜ」と、つぶやく。


「ん?」


「なぜ、手袋をしない」


「ああ……苦手なんですよ、手袋」


 ナオコが照れ笑いをうかべると、彼はふたたび目をあけて、にらみつけた。ため息をついて、がばりと起き上がる。野生の獣が突然目を覚ましたかのような素早さだった。布団をはねとばし、そこにナオコを引きずりこむ。

 気づくと、彼女の視界は布団で白くなっていた。


「ちょ、なにするんですか!」と、あわてて布団から顔を出す。


「巻かれておけ」

 と言い捨てて、彼はベッドから降りた。乱れた髪を手ぐしで整えながら、キッチンへと歩いていく。


「まだ眠っていないとダメですよ」


「君が起こしたんじゃないか」


「だから、起こすつもりじゃなくて。また床で寝ているんじゃないかって思って……」


 眉尻をさげて弁解する。つい四日前、ベッドにすら辿りつけず、私室の床に倒れている山田をみて、ナオコの心臓はあわや止まりそうになった。


 彼は横目でふりかえって、

「君こそ、こんな朝に外をほっつき歩いたら、風邪をひくだろう」

 と、嫌そうに言った。


「だって」


 ナオコはしゅんとした。あの時の恐怖が忘れられずに、目が覚めてしまうのだ。大抵は様子を確認して、すぐに去るのだが、今日は部屋が荒れていたため、思わず近寄ってしまった。


「君はなんだ、世話焼きの母親か?」


 ぶつくさ言いながら、彼はコーヒーを二杯入れた。ベッドに腰かける彼女にひとつ手渡し、横にすわる。猫背でコーヒーをすする横顔を盗み見ながら、コップで暖を取る。


「心配して見にきているんじゃないですか」

 と、不服を声に出すと「風邪をひかれるほうが困る」と一蹴された。


「山田さんだって」


「俺はそういうのに縁がない」


 ふいに手が伸びてきて、再び彼女の手先の冷たさを味わった。氷が解けるように体温が混ざる。だんだんと胸が高鳴るが、彼はとぼけた表情を崩さない。


「昨晩、本社から連絡があった」


「……マルコさんについてですか?」


「ああ。新型の精神分離機は、すでに本社および、他の〈芋虫〉に渡った」


 ナオコはだまった。あの日、空港で起こった出来事は、HRAの内情を大きく変えてしまった。

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