Lost diary
扉のまえに気配を感じて、山田秀介は顔をあげた。モニターに大勢の黒い人影が映りこんでいる。
HRAロサンゼルス本社の社長室は、蛍光灯によって白く照らしだされていた。暖房が効いているが、地下の寒さが底をただよう。手術室のように陰湿な部屋だ、と秀介は思っていた。
彼は報告書を置いて、モニターをよく見ようと中腰になった。整頓されたデスクの上に木枠の写真立てがある。黒髪の女性がほほえんでいる。目元が柔和で幼げに見えるが、ひたいは賢しげで、唇に冷たい印象をうける。二十五年前に亡くなった彼の妻、山田理沙だった。
扉が開く。先頭にいるのは、金髪の青年だった。にこやかに部屋に侵入し、
「やあ、秀介」と片手をあげる。
背後から十人ほどの若人たちが、ぞろぞろと入室する。総じて黒いスーツに身をつつみ、不思議と似通った顔立ちをしている。彼らは光の灯らない目を秀介に向けていた。
「急じゃないか」
「いや、申し訳ないね。でもあなたのことだから、ぼくの来訪くらい予想していると思って」
マルコは後方の集団に道をゆずるように、立ち位置を変えた。
「彼らと会うのは、初めてだよね? この子たちが、我らがHRAの根幹をなすブージャムだよ」
スーツの若者たちは、お互いに視線だけを動かして意思疎通をはかった。そして一番年長らしい女性が、金髪をさらりとなびかせて、深々と礼をした。「お初にお目にかかります」とだけ言い、それ以降は黙ってしまった。
「〈芋虫〉のなかでも、彼らは忙しいから。秀介も就任したばかりで、なかなか会う機会がないでしょ? せっかくだから連れて来たんだ」
秀介は表情を硬くしていた。
「そうやって引き連れて、もう隠すつもりすらないのか」
「どういうこと?」と、マルコはにこやかだ。
「君がブージャムである、ということだ」
若者たちの表情が変化した。一番幼い十歳くらいの子どもが、年に不釣りあいな嘲笑を口元にうかべる。
「彼が、ブージャム?」
その言葉に引きずられるように、周囲の兄弟たちも、にやつきはじめた。不気味な人形たちが表情を得たことに、秀介は背筋が寒くなった。
マルコは、困ったように頬をかいて、
「アナタが、そう勘違いをしていることは、重々承知だったけれどね」と言った。
「しかし、アルフレッドが、このことを誰にも、本当に誰にも話さなかったことを考えると……ぼくは、感謝しなきゃいけない」
「ジェンキンス、説明しろ。なにを言っている?」
「アルフレッドが、あなたを後続に薦めた理由だよ」
秀介は眉をひそめた。マルコはちいさく息をついて、
「……山田志保が、その苗字を名乗ったとき、どんな気分だった?」
と、たずねた。
ブージャムたちがざわめき、くすくす笑った。「シホね」と右後ろの少年がつぶやく。隣の少女が「裏切者」とささやく。長女がふりかえって「静かにおし」と人差し指を唇にあてたが、その顔には愉悦がうかんでいた。
秀介は、マルコをにらんだ。
「その質問は、いま関係ないだろう。私の質問に答えてくれ」
「〈鏡の国〉から戻ってきた検体番号七。彼があなたのコピーに育てられたと主張して、自分と妻が考えていた名前を名乗ったとき、あなたは、どう感じた?」
マルコは、淡々と質問した。引くつもりがないようだった。
秀介は、自分になす術がないことを悟った。ブージャムたちは檻のなかの肉食獣のようだった。おとなしくしているが、獲物から視線を外すことはない。
このような事態を避けるために、普段はブージャムを集合させないが、今回は手遅れだ。外の警備員の無事を願いつつ、秀介は口をひらいた。
「腹が立ったよ」と、率直に答える。マルコは片方の眉をつりあげた。
「知らない西洋人の子どもに、自分と妻が考えた名前がつけられている。あげくに彼は、私を親の仇であると知っている。気味の悪い子どもだった……」
妻の病は、プロジェクトから帰還して程なく発見された。見る間に彼女は弱ったが、病室ですごした記憶はほとんど無い。彼女は夫が研究に邁進することを望み、その望みのまま彼は行動した。
気づいたときには、彼女はもはやどこにも居なかった。
それゆえに、彼女があちらの世界では生きていて幸福を謳歌していると知ったとき、涙がにじむほど憎らしかった。彼女と考えた名前をもった少年が、燃えるような憎悪を目にこめてにらみつけたとき、なにもかもが分からなくなった。
「アナタは優しいね」マルコは、ふいに笑った。
「山田くんから名前を取りあげることもできた。でも、そうしなかった。それは大切な奥さんが、どんな気持ちで彼に名付けたのか想像できたから」
秀介は黙った。
「アナタは優しい。だからアルフレッドは、あなたを後続に選んだんだ。もし強くて冷酷な人間ならば、きっとぼくのことを早々に始末していたから」
彼は歌うようにつづけた。
「ぼくの言葉を信じていたね。ぼくはあなたを見るたびに、ぼくの好きな女の子を思いだしたんだよ」
瞳が、うっとりとゆるむ。
「優しくて愚かだ。愚かだから、だれかに教えを乞わなきゃ、なんにも分からないのさ」
嫌な予感がした。マルコの手のうちに黒く光る箱が見えた。秀介は心底ぞっとして逃げだそうと身をひるがえしたが、ブージャムたちに両側から取り押さえられてしまった。
「秀介、大丈夫だよ」
青年の瞳は、青く光っていた。そこで秀介は勘違いに気がついた。
「君は」
「あのね秀介。君には娘さんがいるんだよ。知らなかっただろう」
秀介は息をのんだ。マルコは、嬉しそうに箱をもてあそんでいる。
「キャロルが、彼女とぼくの存在に関しては、すっかり忘れさせてしまったからね……でも大丈夫」
彼は片手を不意に後ろへむけた。するとブージャムの一人が、一冊の本を差しだした。うす汚れた小花柄のカバーが見える。秀介は脳の奥がしびれるような感覚がして、よろめいた。
「勝手に拝借しちゃって、ごめんね?」と、マルコは悪びれない笑顔をうかべた。
「でもおかげさまで、すべてが上手くいっているんだ」
秀介は呆然と手帳を見つめた。それは向こうの世界で発見された妻の日記だった。自分の妻ではない。偽物の、だがまぎれもなく愛しい妻の筆致で書かれたそれは、ページを繰るたびにやりきれなくなった。いっそ捨ててしまおうかとも思った。
自身の研究室の棚に、ひっそりと封印したそれは、目の前の青年の手のうちに収まっていた。
「返せ」と、低く彼はつぶやいた。マルコはそれを無視し、にやついた。
「見たくないものをどこに隠すのか……アルフレッドと同じだ。科学者は未来を愛するために、過去は目に触れない場所に置くんだね」
ブージャムたちが、鬱屈した笑顔をうかべた。「そして、過去の遺物がどうなろうと、知ったことではない」と、一人が口にする。
「おれたちが居なくなろうと、かまわないだろう」
「わたしたちが生きていようと、いなかろうと」
「人間ではないのだから」
「この国の未来に、わたしたちは不必要だから」
一番後ろに立っていた見目麗しい少女が、小首をかしげた。
「不必要なものは、そそくさと立ちさるべきです」
「もちろん、これは君のもの。君と君の奥さんの大切なものだからね」
マルコは優しく笑んで、山田秀介に手帳をさしだした。ひったくるように奪い取った手帳の影から、黒い箱が光を帯びて、男の頬を照らした。なぜか手帳を掴んだ瞬間に、秀介は全てを失ったことを心から実感した。もうなにもかもが、自分の手の内から零れ落ちたのだ。
空虚にすべりこむように、
「すべてがうまくいけば、みんなが幸せになるんだ。ね、お父さん」と青年がささやく。
部屋に光がさす。地下に太陽が降りる。