1998年4月3日~8月4日
1998年 4月3日
少しセンチメンタルになっている。秀介とこの場所へ来て、もう八年がたつ。
昼間、洗濯を終えてから、日記を読み返した。10年日記なんて貰ったときは、なんて物をくれるんだと思ったが。秀介のプレゼントのセンスが証明されたようで、やや悔しい。
だいぶ筆記が変わった。まだ「あちらの文字」で書いてはいるが鏡文字にも慣れてきた。
あちらで研究員として働いていたなんて、嘘みたいだ。同じ時間が流れているはずだが、今頃どうなっているのだろう。ナオミやアルフレッドや研究員たちは、まだあの危険な研究を続けているのだろうか。
1998年 7月7日
どうにか落ち着こうとしている。まだ書けない。秀介が、ずっとそばにいてくれることだけが救いだ。
1998年 7月8日
食べ物が喉を通らない。
志保たちが様子に感づいている。心配させて親失格だ。しっかりしなくては。
1998年 7月9日
現実を見つめなくてはならない。
私は科学者だ。もう違うかもしれないが、その在り方を変えてはならないと思う。
少なくとも、今は。
一昨日、人がたずねてきた。HRAの芋虫で、知りあいの男だった。
彼の話を聞いてから、ここ数日は目の前が真っ暗だった。秀介も同じだったと思うが、私よりは冷静だった。おそらく、多少予想していたのだろう。
いま向こうの世界には、山田秀介と山田理沙、両人がいるそうだ。
つまり鏡の国にいる私たちは、コピーである。
1990年5月24日、あのプロジェクトの生存者は、私たち夫妻と研究員が二名、そして芋虫が一名だけだったそうだ。返ってきた成果は、例の老人が虚像へと変化したことで立証された、精神エネルギーと肉体の固定化についての報告。赤ん坊は消えてしまったのこと。
向こうの世界では、検体番号二から六までが軸移動を行い、肉体と精神を進化させた。今では彼らのことを〈ブージャム〉なんぞとふざけた言い方をしているらしい。
アルフレッドは、消えた赤ん坊を血眼になって探している。一番最初に進化した存在だ。それが鏡の国に及ぼす影響を、少なからず、彼は予想しているようだった。
不安でふさぎこんでいたら、秀介が珍しく恋人みたいにふるまう。男というのも、いまだによく分からない。なぐさめようとしているのだろう。
思えばこの八年間は、私の一生で一番すばらしかった。
アルフレッドが早々に諦めることを望むしかない。
1998年 8月1日
また奈保子が腹をたてて、家出をしてしまった。
あいにく志保と丸子がすぐに発見したが、彼女には手を焼く。まあ志保のときもあれくらいの年頃は大変だったから、大丈夫だろう。
1998年 8月2日
丸子の様子が最近おかしい。今日も、急に窓辺で泣き出した。妙だ。彼は三人のなかで、一番情緒が安定している。
頭をなでてやると、本当に珍しいことに甘えてきた。心配だ。
しかし、なにかが怖いにしても、あの子たちにはお互いがいる。
丸子が意味も分からず出現したときは参ったが、今になって思えばよかったのだろう。
もしも私たちに、なにかがあったとして。彼らは助け合うはずだ。
1998年 8月3日
秀介がケーキを買ってきてくれた。だれの誕生日でもない、と指摘したら、彼はすねてしまった。
結婚記念日だった。すっかり忘れていた。
嬉しい。彼と結婚して良かった。
1998年 8月4日
最近、思うことがある。
昔は、幸福が怖かった。幸福を味わっている背後に、突き落とそうとする影がある気がしていた。
だが、志保、奈保子、丸子と出会って変わった。
あの子たちがいるならば、幸福のその先にある悲しみも乗り越えようと思える。
悲しくとも辛かろうとも、きっと彼らの未来には素晴らしいものがある。そう確信できるからこそ、悲劇的な気分にならずにすむ。
先日、秀介が近所で子どもの集団を見かけたそうだ。