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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
鏡の国のバカ
148/173

1990年5月30日~6月16日(推定)

1990年 5月30日(推定)


 なにから書けばよいのか分からない。

 混乱がようやく落ち着いてきたので、書き留める。


 現在の状況を記録する。

 私たちは、おそらく鏡の国の内部にいる。


 とりあえず二人とも無事だ。時刻に関して、まったく手がかりがない。この場所では太陽が西から昇るのだ。秀介と話しあった結果、時間は現実と同一の早さで進行していると仮定する。

 場所、これが問題だ。私たちは日本にいる。正確ではない。日本に準じた場所が正しい。


 本当に混乱している。起こったことを、一から書くとする。



 実験当日、鏡面への侵入は順調に行われた。

 私たち研究員と「永遠の命志望者」の老人(こいつがいけ好かなかった)を、15名の芋虫が警護した。虚像が出現する気配はなく、エネルギー値も非常に安定していた。


 私の腕のなかには、検体番号七がいた。

 保護ケースに入れて運搬する予定だったが、入れようとした瞬間に泣き出した。声は普通の赤ん坊と同じく、ぎゃんぎゃん甲高かった。どうしようもなかった。

 やむを得ず手で運搬することになった。見た目は化物なのに、血の通った生き物だった。行程が安全だったため、赤ん坊を化物だらけの場所に捨て置くのかと、徐々に気が重くなった。


 異変が発生したのは、エネルギー値が最も高い地点に到着したときだった。そこに赤ん坊を置いて帰る予定だった。

 例のいけ好かない老人が、突然苦しみはじめた。

 みるみるうちに身体が変化しはじめた。しわだらけの手足が、なめらかな白い肌へと変化した。丸めた紙のような老人の身体は、観る間に巨大化し白い肉の塊になった。


 人間が虚像へと変化する瞬間である、と皆が理解していただろう。正直、興奮した。あの事象は、私たちの仮定に証拠を与えた。

 鏡面を通過する、つまり世界間の軸を移動するということは、精神エネルギーと肉体を分離させること。しかもそれは「分離しかけた」、つまり「死にかけた」人間であれば成立するということだ。


 あっという間に老人は、巨大なライオンへと姿を変えた。虚像を生身で観るのは初めてだった。醜く美しい生き物だった。

 虚像は手始めに芋虫を二人ばかり食いちぎって、甲高く鳴いた。老人の悲鳴のようにも聞こえるその声から、私たちは逃げ出した。こうなってしまっては、実験の続行は不可能だった。

 芋虫の一人が、保全部に鏡面を開くよう連絡した。しかし拒否された。虚像が出現した状態で鏡面を開くことはできない。当然だった。当然だったが、みんな絶望した。


 私たちは、散り散りになった。もうどうすることもできなかった。

 秀介が駆け寄ってきて、私の手を引いた。彼はガタガタ震えて「湖に入ろう」と言った。そうしたところでライオンに美味しく頂かれることは決まっていた。だが、うなずいた。

 湖に入ると、きちんと冷たい水の感触がした。腕の中には、まだ検体番号七がいた。放り出すわけにもいかなかったのだ。狂乱の渦においても、赤ん坊は寝ると決めたら寝るもののようだ。


 不思議だった。私たちは死にかけていた。湖の底に沈もうとしていた。だが、温かい赤ん坊を抱いていた。とびきり醜いが、きちんと生きている赤ん坊。

 運命的な気がした。それで馬鹿げたことに、もし生きのびることができたら、この赤ん坊を育ててやろうと思ったのだ。


 私たちは湖に沈んだ。秀介が抱きしめてくれた。私は赤ん坊を腕に閉じこめていた。


 気づくと知らない街にいた。知らない街だったが、見慣れぬ街ではなかった。

 そこは私の生まれ育った日本によく似ていた。多摩川のそばにある、美しい夕日が落ちる河川敷の景色だ。秀介はアメリカで育ったから分からなかったようだが、違う国に来たことは気づいていた。

 さらに驚愕の事実。腕に抱いていた赤ん坊が、ごく普通の健康体に変化していた。あるべき場所にあるべきものがあり、頬はピンクだった。眠りから目覚めて、人の気も知らずに笑っていた。


 ひとまず近隣の家を訪ねた。表札はやはり日本のもので、町のいたるところに掲げられた看板も、日本語だった。

 一つ異なる点があった。文字がすべて反転していた。それにより、私たちは鏡の国に居ることに気づいた。




1990年 6月12日(推定、あくまでも)


 鏡の国における東京都の人口は非常に少なかった。面白いのは、ここに生きている(つまり向こうの世界で死んで、こちらで再生した人々)は、それをまったく不思議がっていないことだ。人間にたいして居住区が広すぎる点にも疑問を持っていない。まあ、それは私たちにとってありがたかった。

 空き家の一つを借りた。住宅街の一戸建てだ。秀介は部屋の小ささにびっくりしていた。


 不思議だ。すべてが反転している以外は、こちらはとてつもなく平和だ。

 人々はごく普通に働き、生活を営んでいる。電気が通っていて、水も飲める。テレビも、文字が反転している以外は、アナウンサーがくだらないニュースを読み上げている。


 とりあえず以下のような仮定をたてた。


・現在地は鏡の国の内部である。

・日本の東京都多摩市に相当する軸にいる。

・アメリカから日本へと軸移動した理由は、鏡面内の混乱が関係する。

・私たちの精神エネルギーと肉体は、鏡面に存在した時点から維持されている。

・維持されている理由は不明。

・赤ん坊の姿が変化した理由は、軸移動における、精神エネルギーと肉体の分離活動が関係している。そのため、赤ん坊は以前よりずっと健康になった。


 そして健康になった結果、うるさくなった。

 今現在、かごの中で泣いている。どこに泣き叫ぶ体力が詰まっているのか解剖して調べたいほどだ。世の母親がこんなに苦痛に満ちた生活を送っているとは、考えてもみなかった。元の世界に戻ったら、ナオミに教えてやろうと思う。


 赤ん坊の処遇に関して、ひとまず私たちで世話をすることに決定した。

 彼(男の子だった)は、思いもよらない発見をもたらすだろう。そのために彼の生存が不可欠だ。非常に骨の折れる業務だが、とりあえず粉ミルクを作る。


 


1990年 6月16日(多分。こっちのカレンダーでも同日付なので、もう書かない)


 秀介が働きに出てくれることになった。当面の生活のためだ。戸籍もきちんと残っていたため、案外あっさりと職が見つかった。就職機関もしっかりとしているとは恐れ入る。本当にこの世界はまともに機能しているらしい。唯一困るのは文字の問題だが、それはどうにかなるだろう。


 赤ん坊に名前をつけることにした。検体番号七は呼びづらいうえに、赤ん坊と呼び捨てるのも違和感。秀介もそれに賛成した。彼はすっかり子どもに心奪われてしまった。必死で寝かしつけたのに、わざわざ起こして構おうとする。世の母親が夫を憎むようになる理由がようやく分かった。


 赤ん坊には、子どもが生まれたら与えようと考えていた名前をやることにした。

 志を保つと書いて、志保だ。非常に良い名前だと思う。

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