1990年4月9日~5月23日
1990年 4月9日
ナオミが治療を止めたそうだ。
彼女は、来月ジョージと一緒にロンドンに異動する。それが理由だと思う。
正直なところを書く。これは日記だから。
つらい。
1990年 4月11日
ドクターに会いに行った。ダウンタウンの産婦人科は、成り上がりの私にとって常に居心地の悪い空気で満ちているが、ドクターは優しい(金持ち喧嘩せずと言うが、彼はなかでも良い金持ちだ)。
ナオミの話をすると、君があきらめる理由にはならないと、なぐさめられた。
たしかにナオミは私より二つ若い。エドワーズとステプトーが英国で成功して12年、ARTにおいて有利であることは間違いない。理解できる。彼は妊娠を「授かりもの」と言いあらわした。
秀介にその話をした。彼はドクターの言い回しを気に入ったようで、通院履歴にその言葉を書きつらねていた。
今更かもしれないが、私たちは少々普通の夫婦と違うみたいだ。
大抵において、私のほうが沈黙気味で疑心暗鬼、彼のほうがお喋りでロマンチック。だが今日は彼のお喋りが心地よく思えた。ギフトを待ち遠しく思う。
1990年 4月25日
今のところ検体番号一の遺伝子に、変形は観られない。彼女はこの世界で産まれ、死亡した。その後に鏡の国へと移動。そして再び母なる土地、アメリカ、ロサンゼルスに戻ってきた。それは幸福か。考えてみても私にはわからない。倫理学者に任せるとする。
度重なる時空の移動によって、彼女の肉体と精神には、必ず変化があるはずだ。
それは遺伝子の変形という形で、私たちに観測可能な現象であるはず。
追記
6月に実行予定だった〈虚像〉の遺伝子構造に関する実験に進展があった。先日誕生した検体番号一の子供が、計画に完璧に適合するとの連絡あり。
日系ブラジル人研究者との間に産まれた、その子どもは奇形児だそうだ。
1990年 4月26日
気分が悪い。
今日、例の赤ん坊を観に行った。
言葉にしてよいものか、まだ迷っている。キリスト教的価値観が黙っておくべきだと述べる一方で、科学者としての私が事実を認めろと迫りくるのも事実だ。ベルリンの壁みたいに隔てられている。
OK、認めよう。その赤ん坊は化物だった。検体番号七は観察上、人間とは言いがたい形状をしている。
頭部、胴体、手足の一部に癒着が見られる。鼻と口はただの穴。目は二つあったが、異常に肥大化し、すでに視神経が千切れているそうだ。内臓、すい臓、胃の半分が潰れている。呼吸ができているのが不思議なくらいだ。
鏡の国の存在を知って、神を信仰することの馬鹿馬鹿しさをより一層感じる。しかし、あのような生物を見ると、私の行いに倫理的罰を与えられる気がして怖くなる。
私たちの行いは正しくない。理解している。
それでも、だれかがやらなくては。
1990年 5月1日
プロジェクトの実行メンバーに選ばれた。秀介もだ。
光栄でも名誉でもない。ついこの間も、北京でエネルギー値を観測していた研究者が、死んだばかりだ。
研究者12人に対して芋虫が15人、護衛に付くため安心してほしいと説明された。
一刻もはやく虚像に対抗する有効な手段を発明しないと、この組織の未来は暗い。
私たちのように身よりのない人間であっても、死にたいわけではない。
1990年 5月3日
久しぶりに秀介とチャイニーズ・シアターに行った。鑑賞前にめそめそ泣くので、どうしたのかと聞いたら「これが君と観る最後の映画かもしれない」とのこと。
横で女々しく泣く男がいると、女は逆に雄々しくなる……とマリアが言っていた。
秀介は本当にかわいい。死ぬにしても、彼と同じ場所で死ねるのならば幸せかもしれない。
1990年 5月10日
プロジェクトの詳細が発表された。目的は、軸移動における遺伝子構造の変化の観測。
鏡の国の利用価値の高さは、とどまることを知らない。どれだけ危険か話したうえで、度重なる実験に「客」が付いて回るのも、永遠の命なる俗説が一部の超富裕層のあいだで出回るせいだ。
今回のプロジェクトにも、多額の援助が得られた。死にかけの老人が一人、実験に協力してくれる。
もう1時になるのに、まだ秀介がテレビを観ている。
彼は子どものようだ。注意しないと、いつまでもやりたいことをやり続ける。
チョコレートを飲んでいたので、つい付き合ってしまった。そうこうしているうちに『特攻野郎Aチーム』シーズン1を3話ぶん観終わってしまった。もう朝だ。信じられない。
1990年 5月13日
アルフレッドと食事をした。もう60才近いのに、ステーキを1ポンド、そのうえにチョコレートアイスクリームをたいらげた。彼の強靭さには見習うべき部分がある。
彼から、検体番号一に関する新たな示唆を得た。
遺伝子が変化したのではなく、固定化したと仮定するのがベターとのこと。度重なる軸移動によって、遺伝子が「慣れた」とも言える。肉体と精神の結びつきがより強固になったと考えれば、彼女が記憶を保持したまま、鏡の国からこちらに移動した事象にも説明がつく。
そうした場合、鏡の国へ生身の人間が渡る日も近いかもしれない。肉体と精神の固定化が可能になれば、分離することなく鏡面を通過できるだろう。
なんにせよ、再来週のプロジェクトが有効な結果を出すことを願う。
それとアルフレッドと子どもの話をした。なぜか。
彼は養子をとりたいそうだ。
非常に意外だった。彼も子どものような部分をもつ人間だ。一見すると厳しく冷酷だが、ユーモアがある。彼のうさんくささを嫌えないのは、やはり秀介と似た部分があるからだろう。
養子も選択肢に入れるべきだ、とは私も分かっている。
まず生きて帰ってくることが先決だ。
1990年 5月23日
いよいよ明日になった。念のため、エコー・パークの一角を借りたらしい。
秀介も覚悟を決めたのか、大人しくしている。挨拶にドクターの元をたずねると、たまたまナオミに会った。彼女は思い直したそうだ。
手放しで喜べることではないかもしれない。でも私たちはハグをしたし、生きて帰ってくると約束した。
いつかナオミと私と、そして子供たちで、散歩をしたい。