眠れる男の夢
暗闇に、低い音が震えて這っていた。
「……まもなく着陸準備を始めます。座席の背もたれとテーブルを元の位置にお戻しください」
マルコは目を開けた。見ていた夢の余韻が、まぶたの裏に貼りついていた。目頭をもんで、首をまわす。肩がこっていた。
「やっぱり、キャロルに飛ばしてもらったほうがよかったかなあ」
と、横で読書をしていた女性に話しかける。
「あなたが、飛行機に乗りたいって駄々をこねたんでしょう」
リリー・タッカーは、長いフライトによる疲れか、不機嫌そうに返した。
「せっかくチケットとったし、もったいないかなあって思ったんだよ……まあ、一枚無駄になっちゃったけど」と、マルコはニコニコした。
「それに、ほら、君の身体もね、休まないといけなかったし」
彼女は、むっつりした。
「首を一突き。シホらしいです」
「ふふ、遠慮しないよねえ」
自分たちに恐れるものはない、とマルコは知っていた。殺されたはずのリリーが復元するように、キャロルが味方であれば、自分たちは正しく物事をこなすことができる。
「バカな人です」
リリーはふいと横をむいた。〈虚像〉になった彼女が、兄のことをどう思っているのか、マルコには分からなかった。ただきっと、少しだけ寂しいだろうなと想像する。
飛行機が雲の中をぬけたのか、窓の外に青い海がみえた。ロサンゼルスの夕方は、もう日が落ちているのだろうか。波がきらめく様子をながめていると、夢の内容が思いだされた。
それは、なつかしい記憶だった。
マルコの一番初めの記憶。それは、リビングだった。
冬日だった。穏やかな陽光が大きな窓から差しこんでいた。ミルクティー色の絨毯がひかれ、そのうえに三人掛けのソファが置かれている。
そこに幸福そうな男女がよりそっていた。彼らは黒髪ですこし平たい顔立ちをしていた。彼らの足元で膝たちしている少年は、金髪で青い目をしていた。外見からすると彼らは他人同士に見えたが、なによりもその親密さによって、家族であると理解できた。
三人は、いちように女性の腕のなかをのぞきこんでいた。あり余る幸福が彼らの頬を彩っていた。清潔そうな布に包まれた赤ん坊が、ぐっすりと眠っていた。
「なまえ、なまえは?」
少年が、白くすべらかなほおを赤くして、たずねた。
「志保、こっちに」父親らしき男性が、少年を抱きかかえた。
「考えていた名前は、おまえにあげてしまったから」と言って、ほほえむ。
「おばあちゃんの名前をとって、奈保子よ。古風だけれど、いい名前でしょう」
母親が息子に笑いかける。
「こふう?」少年は首をかしげて、赤ん坊をじいっと見つめ、
「小さいね」と感想をのべた。
マルコはその風景を遠くから見守っていたのだが、少年の言葉に心の底から同意した。その「赤ん坊」という生き物は、本当に小さかった。人間であるとは、とても信じられなかった。ふくふくしていて柔らかく、いい匂いのしそうな生き物だった。
言葉を知らない眠ったままの命は、なんだかとても愛らしく思えた。
「志保は、これからお兄ちゃんだな」と、父親が言った。
「おにいちゃん」少年はうれしそうにつぶやいた。
「そっか。おれは、おにいちゃんなんだ」
「そうだよ。兄妹は、ずっと一緒にいるのだからね。この子にはあなたが必要だから。いっぱい愛して、大切にしてあげて」
少年は床におろされると、母親にむけて両手をひろげた。
母親と父親は視線をかわして、そっと赤ん坊をわたした。「気をつけて」と言うまでもなく、少年は慎重に慎重をかさねて、小さな妹を抱いた。
彼はミルクの匂いを胸いっぱい吸い込むように深呼吸をして、閉じられたまぶたを見つめた。すると赤ん坊が目をさました。少年は、ぱあっと顔を明るくした。
「なおこ、おにいちゃんだぞ」
両親が愛おしげな表情で二人をみていた。
マルコは、急にさみしくなった。
彼はこの家族が大好きだった。つい最近この国にきたばかりの彼らは、とても幸福だった。ここを、とても気に入ってくれていた。
どうやら、むこうの国で大変な思いをしていたようだ。
彼らはこの場所で幸せになった。そう感じるとマルコはうれしかった。しかしそれを伝える言葉もなければ、ずっとずっとここに居てほしいのだとお願いする体もない。
だから家族を遠くから見守っていたマルコは、そのさらに遠くの果て、空のかなたにいる太陽にたずねた。
「ぼくも、彼らのようになりたい」と。
太陽は、とても驚いた。というのも、マルコがそういった意志を持つ存在だと思っていなかったようなのだ。
しかし太陽は、マルコの自我の芽生えを喜んだ。そして良いことを思いついた、と伝えた。
あの美しい少年は、人間よりもさらに素晴らしい存在だ。
彼を真似して、生物の肉体を作ればいい。
そして、いつか貴方自身が、あの赤ん坊のような綺麗な人間と、あの少年のような強い生物で、この国を満たせばいい。
それは、とても魅力的な提案だった。マルコは、まだ満たされていなかった。隣にもっと大きくて、にぎやかですてきな国があると知っていた。それに憧れていたのだが、どうすればそうなれるかは知らなかった。
肉体と精神をもつ、命というもので、マルコは自分自身を満たしたかった。
マルコは、庭に面した窓ガラスの中に入った。そうすると、赤ん坊を抱く少年の肉体がみるみるうちに分かった。
――――しなやかな手足、なめらかな皮膚、中でどきどき鳴っている心臓。
少年がふりかえった。
―――小麦のような金色の髪の毛、眩しい青色の瞳、中で真摯に眠る精神の光。
「ごめん、お母さん。ナオコ、かえす」
少年はそう言ったと思うと、マルコに近寄ってきた。
「どうしたの?」と、母親がたずねるも、少年は応えない。
ただ、大きな窓ガラスの前に立って、庭をじっと眺めている。
「おい、志保」
と、父親が呼んだが、少年は動かなかった。
空から太陽が、話しかけてきた。
――――また会いましょう。そのときまであなたは、ただの命。
その太陽に「ありがとう」と言って、自分を手放した。そのときからマルコは、ただのマルコだった。
いまの自分は、誰なのだろう。彼はふと思った。
窓の外は、あいかわらず海が流れている。もうすぐ飛行機が着陸する。世界は普段通り動いていて、忙しく人がうごめている。どの場所でも地域でも、国でもそうだ。
彼には、なにも分からなかった。
ただあの日の喜びが、光となって胸にやどっていることは、たしかだった。
薔薇のような頬をもつ赤ん坊。最初に誕生した生命。彼はちいさく口の中で、彼女の名前をつぶやいた。本当に恋しくて、別れ際の絶望が悲しくて、そして、とても素敵だったので、くすくす笑った。
恋に落ちたのだ。赤ん坊の彼女に。
それは遠い昔、眠りに落ちていた鏡の国が思ったこと。