夢の行く先
近づいてくる音の波に、ナオコは目を覚ました。数回まばたきをして、早鐘のように鳴っている音が、自分の心臓から出ていることに気づく。
夕暮れが、世界をつつんでいた。ひたいに手をおき、呆然とする。背中が汗でびっしょりと濡れ、自分の荒い呼吸が遠く聞こえる。
「ナオコくん?」
空を背景に、マルコがあらわれた。
彼は、夢のなかの少年が大人になった姿そのものだった。流れる金色、水底のような瞳。なつかしさを呼び起こすはずのそれらは、彼女の胸に空虚な穴をあけた。
「おはよう、大丈夫?」と、彼は優しい声でたずねた。
ナオコは、ベンチに腰かけた彼のふともものうえに、頭を預けていた。なにも答えないまま、ぼんやりと青年を見つめる。
彼らは展望デッキに居た。風が吹きすさんでいたが、不思議と寒さは感じない。離着陸場に飛行機が並んでおり、搭乗客を待つ姿勢のまま沈黙している。
「ねえ、キャロル。リリーくんは大丈夫だったの?」
夕焼けに黒ずんだ空の中心に、もう一つ、太陽がうかんでいた。そこから空気にのって、鐘の音がした。
「あ、そう。ならいいけど……相浦くんも侮れないね。ナオコくん、起きられそう?」
手のひらが、ナオコのひたいに触れた。かすかにうなずき、口をひらく。
「マルコさん」
「うん、なあに?」
彼は、優しく笑った。
「マルコさんは、すべて知っていたんですか?」
「知らなかったよ。アルフレッドの日記を読んで、それから調べていくうちに、キャロルと出会って思いだした」
ナオコは寝ころがったまま、空のかなたにある太陽を見つめた。
「そうなんですね」
と、つぶやいて体を起こす。かすかな眩暈がした。ベンチにすわりなおして、深呼吸をする。
「わたし」
「うん」
「ひどい人間ですね」
マルコは、そんなことないよ、とも、そうだよ、とも言わなかった。
背後で、乱暴に扉をあける音がした。マルコがゆっくりとふりかえる。ガラス扉から切羽つまった様子で現れたのは、金髪のガタイの良い男だった。
ケビンはマルコを発見すると、慌ててすぐに銃をおろした。
「マルコさん!?」
「ありゃ、早いね」
マルコは苦笑いをうかべて、ベンチから立ちあがった。
左右の地面が波うつ。波紋の中心から、ひし形の物体がめきめきと生え出る。やがて彼を守るように現れたのは、二メートルほどもある巨大な鏡だった。ふちに灰色の文様が描かれている。ナオコはうつろな表情で、それを目で追った。
EKAF。
鏡面に、ぽかんと口を開けたケビンの顔がうつる。
「ばいばい」と、マルコが手を振った。
「バカ! ふせろ!」
聞きなれた声がして、ナオコの背筋が凍る。扉の影から走りでてきた山田が、ケビンを地面に引き倒す。鏡から白い光線が放たれて、彼らの頭上を貫く。破裂音と共に、扉にはまったガラスが砕け散る。壁面は熱で焼けこげ、ただれ落ちていった。
「あれ」と、マルコが驚いた声をあげた。
「山田くんだ」
すぐに山田が立ちあがり、駆け出した。二つの鏡から、何本もの光がふりそそぐ。空を焼き、コンクリートを焦がしながら、交錯していく。
マルコは熱っぽい視線で、攻撃を避けつづける青年を見つめていた。
「約束がちがうじゃない」
山田の左足を、光が掠める。ナオコは思わず立ちあがったが、すぐに凍りついてしまった。
「彼女のことは、もう放ってくれるんじゃなかったの?」
山田は、ぎろりとマルコをにらんだ。地面に手をついて、獣のように飛びあがる。
マルコは避けなかった。その右肩に、青いペーパーナイフが埋まる。山田は荒い息をついて、彼を抑えつけた。右足から煙と血が流れ落ちている。
「ねえ、山田くん」
「ナオコくん!」
彼は、声をさえぎるように叫んだ。
「は、はい?」
ナオコはびっくりして、彼を見上げた。マルコも虚を突かれたのか、言葉をとめた。
「ひとつ、言っておく」彼は深呼吸をして、ナオコを横目でにらんだ。
「俺にメールはよこすな。電話にしろ。分かったな!」
理不尽な怒号だった。思わず気まずさも忘れて、うなずく。
「それと!」
山田は怒ったように言った。
「俺も君を信頼している!」
ナオコは、ぽかんとした。
「え?」
「だから、君がなにを言おうがなにをしようが、信頼するつもりだと言ったんだ! 分かれ!」
マルコが、急に笑いだした。
「なにそれ、面白い」と、ケラケラ笑いつづける。ナイフが深々と刺さっていようが、痛がりもしない。
「それってなに、つまり、心変わりしたってこと?」
「ああ、悪いな」山田は真顔で、ナイフをぐいと押しこめた。
「マルコ、俺は決めたんだ」
「へえ」
ふたつの視線が、ナオコへと投げられた。
「受けいれるつもりがないくせに?」
「受けいれる受けいれないじゃない。俺は、俺のためにしか行動しない」
「ふーん、わがまま。そういうの好きだけど」
マルコはおどけたように、小首をかしげた。
「でも、ごめんね。ぼくも決めたんだ」