ひとぼしころ
少年は顔をゆがめて、妹をみつめていた。
「ナオコ、ここにいるんだよ」
「お兄ちゃん?」少女は不安そうな目をした。
彼は唇を噛み、こぶしを握りしめた。胸苦しく息をすって、口をひらく。
「絶対にもどってくるから、ここにいて」
少年が少女を抱きしめた。狂おしいほどに強い抱擁は、すぐに終わった。少女を突き飛ばすように離し、彼は駆けだした。
少女はびっくりした。わけも分からず「やだ!」と叫び、後を追おうとする。
「来るな!」
彼女はおどろいて足を止めた。ふりかえった少年の瞳は、ぎらぎらと燃えていた。おにいちゃん、と妹がつぶやくも、声は届かなかった。彼は怪我をした獣のように走り去っていった。
ナオコは、ぼうぜんと立ちすくんでいた。小さな影が、橋のたもとに揺れていた。やがて泣き声がひびく。しかし目が真っ赤に腫れて、鼻水がたれて、喉の奥まで痛くなっても、少年は戻ってこなかった。
太陽は沈みきっていた。雑草が夜風にふかれて、びょうと鳴った。彼女は肌寒くて、小さなリスのように座りこんだ。すっかり泣きつかれていた。目をつむると、家族の顔が順にうかび、最後に少年の顔を思いだした。
きっと嫌われてしまったのだ、と彼女は思った。ごめんなさいを言わなければいけない。そうすれば、また一緒に居てくれるだろう。また手を握ってくれるだろう……。
疲れきった身体を、睡魔がおそった。彼女はひざの間に頭をあずけて、身じろぎもしなかった。すべてが夢で、目が覚めたら元通りになるような気がした。
膝こぞうに、白い閃光が当たった。低い地響きが、風にのって響きわたる。
彼女は顔をあげた。空が明るい。いつのまに朝になったのだろう、と首をかしげ、どうやらまだ夜のようだぞ、と思いなおした。
夏の夜の、もやがかった黒色は、たしかに空にあった。ただし、ひだとなって、空のすそを漂っているだけだ。中心にあるモノに押しだされてしまった夜は、怯えたように波打っていた。
真っ白な球体が、大空に燦然と輝いていた。
彼女は、それをよく観ようと、ふらふら立ちあがった。奇妙な物体だった。白く輝いているが、じっと見ていても目が痛くならない。
それはぶくぶくと膨らみ、ちいさく破裂した。やぶれた部分から、美しい絹のような糸が落ちてきた。つぎつぎに糸がたれさがって、カーテンのように少女の周りをたなびいた。
少女は悲しみも忘れて、目をみひらいた。カーテンがぐるりと囲み、彼女の身体をからめとった。悲鳴をあげる。おにいちゃん、と叫ぶ。だれもいない。だれも来ない。
混乱に落ちかけたそのとき、中村ナオコは、自分の手のひらをみた。肉が落ち、すっと伸びた指先が、そこにあった。
彼女は気づいた。もはや自分は、四才の少女ではない。どこにでもいる二十六才の女性だ。
二本の足で立っていた。黒いスーツを着ていた。手も足も大きく、身長が伸びていた。
ナオコは、首をのばした。
雲のなかに居る気がした。カーテンのうちは、ぞっとするほど優しいぬくもりに包まれるようだった。母の胎内に満ちる、羊水の冷たさを感じる。
大きな灰色の瞳が、彼女を見下ろしていた。
「最初の住人、最初の国民」
天啓のようにふる声は、鐘の音に似ていた。
「時間のある宇宙の単位において、あなたは最初の人間。そうマルコが言うから。零から一になる瞬間を、最初と呼ぶ。それならあなたは、その単位において最初」
ナオコは、これこそが、先ほどマルコが話していた太陽だと思った。迫りくる光は、恐怖も忘れるほどに巨大だった。
「あなたは最初。ゆえに彼は、あなたを愛す。この時間のある宇宙の言葉において、あなたを愛する。マルコはそう言った。愛は理由、愛は欲望、愛は祝福」
灰色の瞳は、その中に、いくつもの星を抱えていた。宇宙の最果てを見ているようだった。星は小さな瞳の粒だった。それぞれがうごめき、活動する生命だった。
「愛が祝福だから、キャロルは愛。この時間のある宇宙の定義において、わたしは愛そのもの。マルコはそう言った。だから」
鐘の音が鳴る。
「わたしは、あなたを愛する」
一瞬だけ、河川敷の風景が見えた。少年が血まみれになって戦っていた。少し年上の子どもたちが、彼を捕まえた。手足を力づくで抑えつけ、殴りつけた。悲鳴と怒号が混ざりあい、消えていく。
その目は憎しみと悲しみに満ちて、やがて透明になる。なにもかもを捨て、顔を変え、笑顔を忘れ、それでもまだ、大切ななにかを抱えて歩いていく。
彼女は、少年の名前を知っていた。