表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
143/173

ひとぼしころ

 少年は顔をゆがめて、妹をみつめていた。


「ナオコ、ここにいるんだよ」


「お兄ちゃん?」少女は不安そうな目をした。


 彼は唇を噛み、こぶしを握りしめた。胸苦しく息をすって、口をひらく。


「絶対にもどってくるから、ここにいて」


 少年が少女を抱きしめた。狂おしいほどに強い抱擁は、すぐに終わった。少女を突き飛ばすように離し、彼は駆けだした。

 少女はびっくりした。わけも分からず「やだ!」と叫び、後を追おうとする。


「来るな!」


 彼女はおどろいて足を止めた。ふりかえった少年の瞳は、ぎらぎらと燃えていた。おにいちゃん、と妹がつぶやくも、声は届かなかった。彼は怪我をした獣のように走り去っていった。

 ナオコは、ぼうぜんと立ちすくんでいた。小さな影が、橋のたもとに揺れていた。やがて泣き声がひびく。しかし目が真っ赤に腫れて、鼻水がたれて、喉の奥まで痛くなっても、少年は戻ってこなかった。


 太陽は沈みきっていた。雑草が夜風にふかれて、びょうと鳴った。彼女は肌寒くて、小さなリスのように座りこんだ。すっかり泣きつかれていた。目をつむると、家族の顔が順にうかび、最後に少年の顔を思いだした。

 きっと嫌われてしまったのだ、と彼女は思った。ごめんなさいを言わなければいけない。そうすれば、また一緒に居てくれるだろう。また手を握ってくれるだろう……。

 疲れきった身体を、睡魔がおそった。彼女はひざの間に頭をあずけて、身じろぎもしなかった。すべてが夢で、目が覚めたら元通りになるような気がした。


 膝こぞうに、白い閃光が当たった。低い地響きが、風にのって響きわたる。

 彼女は顔をあげた。空が明るい。いつのまに朝になったのだろう、と首をかしげ、どうやらまだ夜のようだぞ、と思いなおした。

 夏の夜の、もやがかった黒色は、たしかに空にあった。ただし、ひだとなって、空のすそを漂っているだけだ。中心にあるモノに押しだされてしまった夜は、怯えたように波打っていた。


 真っ白な球体が、大空に燦然と輝いていた。


 彼女は、それをよく観ようと、ふらふら立ちあがった。奇妙な物体だった。白く輝いているが、じっと見ていても目が痛くならない。

 それはぶくぶくと膨らみ、ちいさく破裂した。やぶれた部分から、美しい絹のような糸が落ちてきた。つぎつぎに糸がたれさがって、カーテンのように少女の周りをたなびいた。

 少女は悲しみも忘れて、目をみひらいた。カーテンがぐるりと囲み、彼女の身体をからめとった。悲鳴をあげる。おにいちゃん、と叫ぶ。だれもいない。だれも来ない。


 混乱に落ちかけたそのとき、中村ナオコは、自分の手のひらをみた。肉が落ち、すっと伸びた指先が、そこにあった。

 彼女は気づいた。もはや自分は、四才の少女ではない。どこにでもいる二十六才の女性だ。


 二本の足で立っていた。黒いスーツを着ていた。手も足も大きく、身長が伸びていた。


 ナオコは、首をのばした。

 雲のなかに居る気がした。カーテンのうちは、ぞっとするほど優しいぬくもりに包まれるようだった。母の胎内に満ちる、羊水の冷たさを感じる。


 大きな灰色の瞳が、彼女を見下ろしていた。




「最初の住人、最初の国民」


 天啓のようにふる声は、鐘の音に似ていた。


「時間のある宇宙の単位において、あなたは最初の人間。そうマルコが言うから。零から一になる瞬間を、最初と呼ぶ。それならあなたは、その単位において最初」


 ナオコは、これこそが、先ほどマルコが話していた太陽だと思った。迫りくる光は、恐怖も忘れるほどに巨大だった。


「あなたは最初。ゆえに彼は、あなたを愛す。この時間のある宇宙の言葉において、あなたを愛する。マルコはそう言った。愛は理由、愛は欲望、愛は祝福」


 灰色の瞳は、その中に、いくつもの星を抱えていた。宇宙の最果てを見ているようだった。星は小さな瞳の粒だった。それぞれがうごめき、活動する生命だった。


「愛が祝福だから、キャロルは愛。この時間のある宇宙の定義において、わたしは愛そのもの。マルコはそう言った。だから」


 鐘の音が鳴る。


「わたしは、あなたを愛する」


 一瞬だけ、河川敷の風景が見えた。少年が血まみれになって戦っていた。少し年上の子どもたちが、彼を捕まえた。手足を力づくで抑えつけ、殴りつけた。悲鳴と怒号が混ざりあい、消えていく。


 その目は憎しみと悲しみに満ちて、やがて透明になる。なにもかもを捨て、顔を変え、笑顔を忘れ、それでもまだ、大切ななにかを抱えて歩いていく。


 彼女は、少年の名前を知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ