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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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夕闇

 中村ナオコは、夢をみていた。


 彼女は小さな女の子だった。クローゼットに隠れていた。服と服のすきまに無理やり押しこめられて、

「絶対に出ちゃダメだ」と言い含められたので、そのとおりにしていた。

 暗かった。服のカーテンをくぐりぬけて、わずかに開いたすきまを覗きこむ。お日様のさす寝室が見えた。


 どん、どん、どん、どん。


 振動が床を伝い、クローゼットをゆらした。

 お母さんとお父さんのベッドが、窓辺にある。その脇に丸いテーブルがあって、小花柄の手帳が置かれていた。花瓶のかけらが、床のうえでキラキラ光っていた。ダリアの花弁が散らばっていた。


 どん、どん、どん、どん。


 まだ音が鳴っている。そのたびに、クリーム色の壁紙に赤い液体が撥ねた。

 ナオコは、ぼんやりと見つめていた。銀色のゴルフクラブが、上下に動いている。それは振りおろされるたびに、太陽を跳ね返して光った。お父さんが、よく庭で振っている赤いグリップのクラブだった。

 十四歳くらいの子どもが、それを振っていた。知らない子だった。

 上から下へ。上から下へ。どん、どん、どん、どん。

 そのたびに、床に転がったものから、赤い噴水がふきだした。もう動いていなかった。ぐしゃぐしゃにつぶれていた。横に落ちているダリアと同じくらい、赤かった。

 その子どもは、お父さんをなぐっていた。

 

 じっと見つめた。そうするしかなかった。心臓がどくどくと鳴っていた。

 やがて部屋にだれかが駆けこんだ。ぎゃあ、と甲高い叫び声と、獣のような咆哮がした。ナオコは、耳をふさいでいた。目をじっと閉じた。嵐が頭のなかをうずまいていた。はやく静かになってほしかった。


 クローゼットの扉が開いた。うずくまる彼女の足元に、光が落ちた。


 扉に手をかけていたのは、ナオコの大好きな少年だった。トレーナーが赤く汚れていた。お父さんをなぐっていた子どもは、ゴルフクラブを抱えたまま、じっと床に倒れていた。


「ナオコ」と呼んだ声は、枯れていた。


 彼女は、少年に抱きすくめられた。


「お兄ちゃん」


 ナオコはホッとして、ぎゅうと抱きしめた。顔をあげて、

「お父さんは」と、たずねる。


 彼は口をつぐんだ。後ろをちらりと見て、それで、

「寝ているんだよ」と笑った。


「でも、だいじょうぶだよ。おれがいるから」


「うん」


 ナオコにも、お父さんが寝ているわけではないと分かっていた。だけど、そのときは少年の嘘を信じた。信じるしかなかった。


「ねえ、マルコは?」


「マルコは」


 彼は、一瞬だまった。


「あとで会えるよ」


「ほんとう?」


「ほんとう」


 少年の手が妹の髪をなでた。彼は悲壮な笑顔で、

「外、行こうか」と言った。


 寝室を出ると、廊下に知らない人が倒れていた。赤く汚れている。ナオコは怖かったけれど、少年が手を握ってくれていたので、じっと口をつぐんで横を通りすぎた。

 一階に降りた。リビングにお母さんがいた。彼女は、ソファに横になっていた。少年が彼女を無視して外に出ようとしたので、

「いってきます」とナオコは声をかけた。


 彼は、ぎょっとした顔で妹をみて、それから肩を震わせてうつむいた。


「お兄ちゃん。お母さん、起こしたほうがいい?」


 もしかしたら寝ているのかもしれないと思って、ソファに近づこうとすると、少年が手を強く握って「いいよ」と言った。


 彼女はすこし怯えた。少年はこわい顔をしていた。


「いいよ、たぶん、聞こえているから」


「そうかな」


「うん」


 彼はナオコの背中を押し、リビングから立ち去ろうとした。ふりかえりざま、彼の目には、腹部から下を真っ赤に染めた女性が映っていた。


 玄関で靴をはいて、外に出た。夕暮れが家々の屋根をオレンジ色に染めていた。風はなく、彼らは早足で淡々と歩いた。少年は無口で、なんだか怖かった。


 やがて、河川敷に辿りついた。夏の夕方は一瞬だ。橋の向こうがわを落ちる太陽は、もう眠ろうとしている。

「お兄ちゃん」


 彼は、もう応えてくれなかった。怖い顔をして、まっすぐ前を見ていた。ナオコは疲れていた。それでも少年に置いて行かれないように、必死で後をついていった。だがそのうち、足がもつれて転んでしまった。つながれた手が離れて、ひざがすりむけた。

 にわかに悲しくなり、ぽろぽろと涙がこぼれた。


「泣いちゃだめだ」


 彼はナオコを無理やり立たせようとした。しかし彼女はぐずって、その場にうずくまった。途方にくれた少年は、焦って周囲をみわたした。彼らのほかには、だれもいなかった。

 彼はとりあえず安心したのか、息をついて、少女の前にしゃがみこんだ。「ほら」と笑いかける。


「お兄ちゃんの背中にのって」


「……いいの?」


「いいよ」


 少女は鼻をすすりながら、少年の背中にしがみついた。


「いいこだ」


 少年は妹を背負って、橋のたもとまで降りた。雑草が生え放題のうす暗い場所へ、少女を降ろす。そして彼女のまえに膝をおって、ほほえんだ。

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