薄暮
中村ナオコは、夢を見ていた。
なつかしい風景を歩いていた。左手に大きな川が流れており、穏やかなせせらぎが聞こえる。反対側は、道路をはさんで、ぽつぽつと住宅が建っている。河川敷には草が生え放題になっていた。
遠景に、アーチのかかった橋がみえた。その奥から、でいだらぼっちのようなオレンジ色が顔をのぞかせていた。夕暮れが垂れさがっている。
彼女は、小さな女の子だった。お気に入りのピンクのセーターと、お花の刺繍がはいったハーフパンツを着て、大人のこぶしほどしかない足は、ベルクロのついたスニーカーを履いていた。
うつむきがちに歩いていたので、スニーカーの土汚れが、よく目についた。当てどなく、とぼとぼと進む。アスファルトのすきまから、雑草が生えていた。寂しくてしかたがなくて、彼女はべとべとになった頬を、手でぬぐった。
「おい、ナオコ!」
後ろから、甲高い声がした。彼女の肩がはねた。あっというまに足音が横から追いこして、手をつかんだ。
「ダメだろ、一人でこっちまで来ちゃ」
七、八才くらいの、まばゆいほどに綺麗な少年だった。外国の血が入っているのだろう。金髪が、夕日をあびて輝いている。瞳の色は青く、心配の色をのせて、のぞきこんでいた。
ナオコは、鼻をすすった。
「だって」と、小さな声で言い、すぐに黙る。
少年は困った顔をしていたが、ふと道の向こう側を見て、片手をふった。
「マルコ、居た!」
ぱたぱたと駆ける音がした。もう一人、少年が走りよってきた。彼らは生き写しだった。
「ああ、よかったあ」遅れてきた少年は、息を弾ませながら笑った。
「ナオコったら、なにも言わないでいなくなっちゃうんだもんなあ」
「ほんとうになあ。ほらナオコ。マルコもおれも、すごく探したんだからさ。帰ろうよ」
「やだ」彼女は、いやいやをした。
「お兄ちゃん、おこってる」
「怒っていないよ」と、はじめに来た少年が、眉をさげた。
「でも、さっきこわかった」
ナオコは自分が悪いことをした、とわかっていた。
少年と絵本を読んでいたのだ。彼は外で遊びたいのをこらえて、自分を膝にのせて、読み聞かせをしてくれていた。だが少し経つと飽きてしまい、人形遊びをはじめてしまった。そうしたら彼はだまって立ち上がり、ぷいと居なくなってしまった。
ナオコは、おどろいた。ぽつんと部屋にいると、どうしようもなく悲しくなった。それでちょっとした復讐心をひめて、家をこっそりと出たのだった。
「それは、おれが悪かったよ。ごめん」
まいったふうに頭をかく少年を、後からきた少年がこづいた。
「こわい顔したんだろ。怒ると、いつもこわい顔するもん」
「だから、あやまってるだろ。ごめんな、ナオコ」
彼らは、泣いている少女の両手を、それぞれに握った。
「ほら、かえろう? お父さんとお母さんが待っているよ」
彼女は、自分も謝らないといけないと思っていた。だから口を開けたり閉じたりしながら、ふたつの同じ顔を見上げていた。手のひらがぎゅっと握りしめられる。心底ほっとした。そんな顔をしているので、手を握りかえした。それで、もうなんにも言わなかった。
三人は道に広がって、帰り道を歩いた。
ナオコは、左手を握っている、先に来たほうの少年をみた。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「いなくなっちゃヤダ」
彼は目をまるくして、それから、ほほえんだ。
ナオコは少年が、ほんとうに好きだった。お母さんもお父さんも、もう一人の少年も、好きだったけれど、彼のことが特別好きだった。優しくて、いつも一緒にいてくれる彼が、いなくなったら……そう考えるだけで、幼い彼女の心はちいさくなってしまうのだった。
「もう、いなくならないよ。帰ったら、おままごとしよう」
ナオコは、すぐに上機嫌になった。
「やったあ」と跳ねまわると、右手を握っていた少年が、不服そうにした。
「まってよ、ぼくは? ねえ、ぼくはいなくなってもいいの」
「よくないよ、マルコも、いないとやだよ」
彼女はそう言って、右の少年に飛びついた。彼は「うわあ」と驚くと、にやにや笑って、ナオコの両手をつかみ、くるくると回りはじめた。
左側にいた少年は、そんな二人を、おだやかな顔でみていたかと思うと、ふざけて彼らに飛びかかった。
三人して道にたおれて、きゃあきゃあ悲鳴をあげる。ほこりまみれになって、お母さんに怒られそうだったけど、そんなことはどうでもよかった。
ふたりが、楽しそうにしていることが、なによりも幸せだった。
アスファルトに寝転ぶ。太陽に熱されて、暖かかった。羽毛のような金色が、ナオコの視界の端を飛んでいく。四つの青い瞳が、きらりとまたたく。どんな花よりも、道に落ちてるガラスの破片よりも、お母さんのピアスよりも綺麗だった。
「ナオコ」と呼ばれる。愛おし気に、くるくると声だけがまわる。視界がぼんやりとにじむ。オレンジが、どんどん黒に呑まれていく。