とある女性の物語
コーヒーは、すっかり冷めていた。うたたねをしていたサラリーマンは、すでに起きていた。女性客は、まだ退屈そうに携帯を眺めている。
マルコはコップを手にとった。一口飲もうとかたむけて、途中で止めた。中身が無くなったのだろう。苦笑して、机の上にもどす。
「アルフレッドは、生涯そのことを後悔していたんだね。好奇心にまかせて、世界を終わりに導いたわけだから。まあ、当然さ」
彼は手遊びをしながら、
「そういうわけで、こういう背景があるんだけど。どうだった? 面白かった?」
と、たずねた。
ナオコは、数回まばたきをした。こくん、とうなずく。
「面白かったです」
「そっかあ、よかった」
「……うそ、ではないですよね」
「うん」
彼は、にっこりした。
「ホントのこと。アルフレッドが亡くなった日に、日記を渡されたんだ。それに、ぜーんぶ書いてあった。わかる? 彼は正義の味方じゃない。どっちかっていうと黒幕だったわけ」
くろまく、ともう一度唇が動く。ぎこちない言葉に聞こえた。
「〈鏡の国〉はバックアップ、〈鏡面〉は魂の処刑場、〈キャロル〉はエイリアンさ。笑えるね」
コーヒーショップの外を、にぎやかな声が通りすぎていった。
観光客の集団が、展望デッキに向かっているようだ。
「わかりました」
ナオコは、ゆっくりとうなずいた。
「どうして、わたしにこの話を?」
「……ナオコくん、この半年くらいで、大人になったねえ」
マルコは、ほおづえをついた。
「そりゃあ、もう26ですから」と、苦笑する。
「そうだけど」
彼は、話をもどした。
「この話には、つづきがあってね。じつは1990年に、キャロルにとって、そしてアルフレッドにとっても、びっくりするようなことが起こるんだ」
と言って、品の良いビジネスバッグから、手帳をとりだす。それはカラフルな小花柄の表紙で、一見して、彼の持ち物ではないように思えた。
「まだ時間あるからさ、読んでみて」
ナオコは、手帳を受けとった。角が削れていたり、染みがついている。
ページをめくる。1990年8月3日との日付が目に入った。だれかの日記のようだ。
マルコは、彼女が日記に目を通しているあいだ、その姿から、ほとんど目を離さなかった。じっと目を据えて、表情を読み取ろうとしていた。
30分ほどかけて、その日記を読み終えた。
彼女は、最後のページを開いたまま、目をふせていた。心臓が跳ね回っている。手帳を、机のうえにすばやく戻す。これ以上、触れているのが怖かったのだ。
「どう?」
マルコが、待ちかねたようにたずねた。
「それも、君は信じる?」
ナオコの口は、閉じられたままだった。無意識に、両手が強く握りしめられていた。小刻みに震えている指先を抑えこんで、深呼吸をする。
「うそです」
冷静さを保とうとした声は、しかし迷子のように不安定だった。
彼は、うれしそうに口元をゆがませた。
「残念、それも真実」
「うそです!」たまらくなって、叫ぶ。
「こんなのっ、信じられるわけ」
「どうして? 辻褄は合うでしょ」
「だって、もし、そうなら……」
動揺していた。言葉をつむごうとしても、喉がつっかえて、うめき声しか出てこない。
目の前の青年を、まっすぐ見つめられない。頭の奥の冷えきった部分が、ちらりと認識した表情を読み取った。あえて沈黙する態度に、絶望する。優しそうなほほえみが、かえって酷薄そうにみえた。
「マルコさんは」
「うん、ぼくがなんなのか分かったでしょ。君がなんなのかも」
とん、と机を人差し指が叩く。
「彼がなんなのかも」
ナオコは、絶句した。身体の電気信号が、すべて止まったかのような静止状態から、乱暴に立ちあがる。がたがたと財布をとりだし、お金を机のうえに叩きつける。瞳がぼんやりとしたまま、虚ろだった。
マルコは、悠然と座ったまま、
「どこ行くの? 逃げても、なにも変わらないけど」
彼女は、首を横にふった。
「なんで、こんな手のこんだ嘘をつくんです」
「だからー、うそじゃないってば」
ナオコは、憎しみをこめて彼をにらみ、カフェの外へ出ようとした。
「あーあ、大人になったって言った矢先、これだよ。困っちゃうねえ、キャロル」
彼は精神分離機を開けて、中の白い球体へ話しかけた。
ナオコはカバンを肩にかけて、きびすを返した。周囲が、好奇の視線をむけていた。
「ま、しかたないや」
彼は、うつむいたまま、おもむろに立ちあがった。ふ、と笑う。
「キャロル、彼女を起こして」
ナオコの手から、伝票がすべりおちた。頭の奥が、電気ショックを流されたように痙攣し、その震えが内臓を揺らした。眩暈をおこして、足がうまく立たなくなる。
その場にひざから崩れおちる。口元を抑えた。濁流のような吐き気がこみあげる。テーブルの脚、近寄ってくる人の靴、差しだされる手、心配する声、空港のざわめき、すべてが歪んでいく。
のんびりと近づいてきたのは、よく磨かれた革靴だった。茶色いスーツの襟元が、視界いっぱいに広がる。まわされた腕が、背中をやさしく叩く。
「大丈夫だよ。これは、君のためだから」
まるで恋人に囁きかけるように、甘い声色だった。ナオコは、薄れかけた意識で、深い湖に放りこまれたような悲しみをおぼえた。同じ声だった。あの人と、同じ。
「まるこ、さ」
はあ、と期待に満ちた吐息が聞こえる。
うれしそうに、つぶやく。
「大好きだよ。ぼくの、最初の人」