コーヒーの底を覗け
「うーんと、ぼくらはどうしようか?」
マルコが、楽しそうに言った。
「ヒコーキ、そうだ、ヒコーキを観に行こうか」
「いいですね」
ふたりは、エレベーターで五階の展望デッキへと向かった。外に出ると、すでに南天を超えた太陽が、まぶしく目をさした。柵のまえに、ダウンジャケットにくるまった見物客が並んでいる。
果てしない滑走路と飛行機をながめて「広いですねえ」と、凡庸な感想をのべた。
「そうだね。四〇〇〇メートルあるらしいから」
マルコはにこにこしながら、到着機を眺めている。すぐそばの望遠鏡から、客が離れたのを見て、
「のぞいてみる?」と、誘われる。
「いや、わたしは大丈夫です……」と苦笑する。
「寒いもんね」
「そうですねぇ」
いくら快晴とはいえ、十二月の気温である。風が強いせいで、よけいに寒く思えた。
「コーヒーでも飲みましょうか」
「いいね、賛成」
肩をちぢこませながら、そそくさと展望デッキを後にする。館内に入ってよく効いた空調に人心地つく。
店を探すマルコの後ろを歩きながら、ふと口をひらく。
「あの……リリーに連絡しなくていいんですか? 昨晩、なにか仕事を頼むって言っていませんでしたっけ」
「べつにいいよ」
けろりと言いながら、スターバックスコーヒーのまえで足をとめた。
「彼女の仕事は、まだ始まらないから。ちゃんと合流さえすれば大丈夫。それより、ほら、ナオコくん、これ飲みたいな」と、冬季限定メニューを指さす。
「あ、かまいませんよ」
「ありがと」と、いそいそ店内に入る。
注文をする横顔を眺めながら、考えすぎなのかもしれない、とナオコは、自分をいましめた。
五分後、彼らは店の片隅に、むかいあって座っていた。ナオコはホットコーヒーを、マルコは甘ったるそうなクリームの入ったドリンクで暖をとっている。『かぶらや』での相対を思いだす。場所も雰囲気も異なるが、満足気にカップを傾ける青年のすがたには、さほど変わりがない。
「アメリカ、いいですね」と、話しかける。
「わたし、行ったことがなくて」
「あれ、そうなんだ。たしか英文学科だったよね? じゃあ卒業旅行は、イギリスとか?」
「ええ。友達とロンドンに……あとは、母親に連れられてフランスにも。一度はルーブルに行けって、無理やりでしたが」
「そうか」と、くすくす笑う。
「まあ、映画好きなら、アメリカは行っても損しないかもしれない。特にロサンゼルスは」
「ハリウッドサイン?」と、指をたてる。
「それは、そんなに感動しないかも」
二人は、おかしそうに笑いあった。感性が似た者同士の会話が、コーヒー以上に身体を温めた。
席からは、ぱたぱたと道行く旅人のすがたが見えた。トランクは色とりどりで、聞こえてくる言葉も、様々だ。
「ナオコくん、それ取って」
マルコが、彼女の足元に置かれていたアタッシュケースを指した。
「見せるって約束していたよね?」
「はい! 見たいです」目を輝かせて、そう答える。ケースの底についた埃を払い、手渡す。
「おっけー、ちょっと待ってね」
彼は、ケースにつけられた鍵を、テーブルの下でいじった。カチャカチャと金属が軽くぶつかる音がする。取り出されたモノが、丸テーブルの中央に鎮座する。
ナオコは、目をまんまるくして、それを凝視した。
それは、黒い箱だった。手のひらに包みこめそうなほど小さい。つやつやと光って、カフェの風景と自分の顔面を映していた。
「これが、精神分離機なんですか?」と、うわずった声でたずねる。
従来の精神分離機は〈芋虫〉の体内に埋めこむために、チップ型を採用している。この箱もかなり小さいが、体に埋めこむのは難しそうだった。
「大きいだろう? 肉体に埋めこむタイプは止めたんだ。やっぱり体に負担がかかるし、一人一台必要だから、コストパフォーマンスも悪いしね」
そう言うと、箱を手にとって、底を指さす。
「これ、押してみて」と、渡される。持ってみると、想像したよりも軽かった。
「ここですか?」
底にへこみがある。人差し指で触れると、かちり、と音がして、蓋が自動的に開いた。
「え?」瞬きをする。
箱の中には、白い球体が入っていた。浮遊している。奇妙な質感だった。ツヤがなく、厚みもない。どの角度からみても、その部分だけ塗りつぶしてしまったように、ただ白いのだ。
見覚えのある質感だった。ナオコは、顔をあげた。
「これって」
「お察しのとおり」
彼は、くすくすと笑った。
「〈虚像〉の一部を使用したものだよ」
そう言って、すぐに「ああ、いや」と、手をふる。
「ごめん、そう怒らないでってば。君は違う、そうだね……」
「マルコさん?」
「君が〈虚像〉じゃないことは、よく知っているってば。そう言ったほうが、分かりやすいから……」
ナオコは、狼狽した。彼は、球体を見つめながら、だれかと会話をしていた。夢見るような目つきをしている。
「新型精神分離機〈祝福〉は、アルフレッドが願ってやまなかった、この世界との離別を可能にする。わかるかい、ナオコくん? この素晴らしさが」
瞳が青く輝いていた。嫌な汗が、彼女の背中を伝った。
「……答えあわせをしようか」
箱を奪いとられる。白い球体が見えなくなると、彼はにこにこした。
「山田くんに、ちゃんと説明しろって言われちゃったしね」
「説明って」
「ナオコくんは、映画だと『グリーンマイル』が好きなんだっけ?」
唐突に話題が変わって、面食らう。
「あれってさ、人間の罪悪の話だよね。心優しい人間は処刑され、彼を救えなかった看守は罪を背負って生きる」
「……ええ、そういう話です」
彼は、ほおづえをついて、上目で見据えてくる。
「ちょっと、面白い話をしようか。ある男性の話」
暖房の調子が悪いのか、どこからか、ぶぅん、と低い音が鳴った。
隣席のサラリーマンがせわしく席につき、電話をかけ始めた。ウェイトレスが、温めなおしたスコーンを女性客のテーブルに置いた。日常が、だんだん切り離されていく錯覚をおぼえる。
マルコは、あいかわらず読めない笑顔をうかべて、口をひらいた。
「……1952年の話。アメリカ航空開発局に、若い才能ある青年が入ったんだ」