コーヒーの底
「いやー、いい天気だね!」
車からおりたマルコが、快活な第一声をあげた。彼は灰色のコートを着ていた。ポケットに両手をつっこみ、気持ちよさそうに目をほそめる。
「そうっすねぇ」と、返事をしたのは、一早く降りて、トランクに手をかけていたケビンである。
広々とした青空を、少しだけうっとうしそうに見あげ、
「ロサンゼルスが同じかどうかは、分からないですけど」と言う。
「あんまり向こうでは、空を見ないだろうさ。地下だからね」と、マルコは、地面を指さした。
成田空港、第一ターミナル横の駐車場に、HRAの社用車である七人乗りのミニバンが停まっていた。
十二時半に渋谷を出発し、首都高に乗って、おおよそ一時間。順調に空港付近まで来れたのは良かったのだが、駐車場が混んでいた。月曜日のため、出迎えの車が多かったのだ。それで、駐車にすこし手間取った。
それでも、まだ十四時をまわっていない。
「相浦さん、わたくしも、なにかお手伝いします」
助手席から降りて、にこにことそう言ったのは、リリーだった。黒いスーツに純白のコートを羽織っており、いつもよりめかしこんだ様子にみえる。
「おう、じゃあ、これ」
ケビンは、かすかに眉をひそめて、一番小さなトランクを彼女に手渡した。
座席から足をおろしながら、ナオコは、苦笑いをうかべた。
道中の様子から、彼が相当気まずい思いをしているのは明白だった。リリーが来日した当初、かなり厳しく当たっていたため、いまさら笑顔を向けられると、対応に困るのだろう。
ナオコは、地面に降りたって、座席から黒いアタッシュケースを取りだした。しっかりと前に抱える。この中に、マルコの完成させた新型精神分離機が入っていた。
彼らは、第一ターミナルの到着ロビーに向かった。歩きながら、他愛ない会話をする。
「相浦くんは、アメリカのどこに住んでいたんだっけ?」
「オークランドっす」
「あれ、じゃあ近いね。知りあいとか、まだ住んでる? ぼく、スカイタワーに登ったことがないんだ」
「やめた方がいいっすよ。あそこ、いつもバカみたいに混んでるんで……」
前を歩く男性二人から、やや離れて、リリーとナオコも会話していた。
「ナオコさん、お土産は、なにがいいです?」
「え、買ってきてくれるの? じゃあ、カリフォルニアワインがいいなあ」
「図々しいですね。ペナントで我慢してください」
「ええ……どこに飾ろうかな。トイレとかでもいい?」
「ちゃんと寝室に飾るんです!」
キッとにらみつけられて、ナオコは、内心ほっとした。ここ最近、彼女の様子に違和感を感じていたのだが、つんけんした対応は普段どおりである。気のせいだったようだ。
到着ロビーに着いた。電光掲示板の下を、国籍様々な人々が行きかっている。手荷物用のカートが引きずられる音と、妙に冷静なアナウンスを聞きながら、ナオコは自分が旅するわけでもないのに浮足立ってきた。空港は好きだ。旅の始まりを感じさせるところが、映画館の非日常性に似ている。
ふいに、ケビンが「あ」と、声をあげた。
「中村! ちょいと荷物、持っててくれ」
「いいけど、どうかした?」と、トランクを受け取る。
彼は、青ざめた顔で、ジャケットのポケットを漁った。
「インキーしたかもしれん」
「ええ?」と、呆れ声をあげる。
「ちゃんと確認しなかったの?」
「いや、ここに入れたと思っていたんだが……」
頭をかくケビンに、マルコが「大丈夫だよ」と声をかけた。
「そうだな、いったん戻って探してみなよ。もしかしたら、駐車場で落としたのかもしれないし。もし見つからなかったら、業者さん、呼んでかまわないから」
「わかりました。すんません」
ケビンは、慌てた様子で頭をさげた。トランクをナオコに預け、来た道をわたわたと駆け戻っていく。
「意外とうっかりしているんだな、相浦くんも」
マルコは、笑いながらトランクに手をのばした。
「大丈夫ですよ。わたしの仕事なので」と、抵抗するも、あっという間に奪われてしまった。
「いいの。これ、ぼくのだから。それに、女の子にいっぱい持たせていたら、何様だと思われちゃうよ。ナオコくんは、それをきちんと持っていてくれればいいから」
と、アタッシュケースを指さして、パチリとウィンクをされる。
「あ、はい……」
思わず、リリーの顔色をうかがう。マルコは、彼女の恋人であると噂がたっている。ほかの女性に親切にする姿をみて、気を良くしないのでは、と考えたのだ。
しかし、リリーは、特に動揺していなかった。ケビンの走り去った道の先を眺めている。
ナオコは、胸をなでおろしたが、少し奇妙に思った。山田の件に鑑みても、彼女は嫉妬深い性質だ。噂が本当ならば、にらまれそうなものだが。
「マルコさん、チェックインには、まだ時間がありますよね?」
と、こちらをふりかえり、リリーが話しかける。
「そうだね。混んでもいなさそうだし、十五時半くらいにチェックインすれば、十分間に合うんじゃないかな」
「それなら、シホに電話してきてもいいですか? 今朝は時間がなくて、話ができなかったので」
マルコは、にっこりとうなずいた。
「それじゃあ、時間になったら、ここで待っているよ。特にすることもないし、ゆっくり話しておいで」
「ありがとうございます」
彼女は、エスカレーターの方へと歩き去った。