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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
132/173

Silly

 トレンチコートを着た小さな背中が、坂をくだっていく。

 マルコ・ジェンキンスは、目を細めて、すぐに来た道をもどった。

 彼はマンホールのふたを開け、ためらいなく飛びおりる。音もなく地面に着地して、悠々と歩きだす。裸電球が、申し訳程度に細道を照らす。ひびわれたコンクリートの壁に、青年の影が描かれていた。

 扉の前で、足を止める。ノブをひねって押すと、きいい、と高い悲鳴をあげて開いた。


 寒々しい部屋である。右手に本棚とベッド、簡素な机と椅子が置いてあり、左手に小さなキッチンと冷蔵庫があった。

 部屋の主を象徴するかのような、からっぽの部屋だ。


 彼は、壁にもたれて座っていた。心をどこかに捨ててしまったかのように、宙を見つめていた。


「山田くん」


 声をかけると、視線だけが向いた。ぼんやりしていた。なにか重大な事柄が、彼の心を奪ったのだろう。そう、マルコは思った。


 先刻、夜空の下。マルコは、彼女の目のなかに、これまで発見できなかったものを、ついに見てしまった。

 それは、興奮だった。激情だった。赤い色をしているくせに、透明だった。その正体を、いやというほど知っていた。刑が執行されたあとの、処刑場を訪れたような気持ちだった。


「したの?」と、マルコはたずねた。


 山田は「なにを」と、ほぼ反射的に答えた。


「セックス」


 一歩、足を進める。


「そういう顔をしていたけれど、彼女」


 山田は、真顔で見下ろす青年を、うろんげに見た。


「君の目は腐っているんじゃないのか」と吐き捨て、

「なんの用だ」と、聞きなおす。


「じゃあ、未遂?」


 にらみつけられる。しかし、言葉は止まらない。


「まさかキス止まりってこともないでしょ。いい年した男女が、二人でいて」


「マルコ、だまれ。下劣な疑いをかけるな」


「彼女は、そういう目をしていたよ。下品だった。見ていて、ヤな気持ち。ね、女の子って成長すると、あんなふうになるもんなんだね、お兄ちゃん?」


「黙れと言っている!」


 怒鳴り声がひびいた。山田は、自分の怒声に驚いたように、目を丸くして、苦々しく眉をよせた。


「なんだ、なんにもしていないんだ」


 マルコは、冷めた目をしていた。


「可哀そうなナオコくん。悪人に恋するよりも、偽善者に恋するほうが、ずっと大変なんだ」


 座りこんだままの青年の肩が、ぴくりと動く。


「ぼくは、彼女がどんなに下品で俗世的でも、受け入れる自信があるよ。唯一無二の存在だもの。でも、ねえ、山田くんは違う。君はあの子を受け容れるつもりがない」


「そんなことは」


「あの子そのものを見るつもりがないから、そうやって拒絶できるんだろ」


「……」


 青年は、目をふせた。動揺が手にとるように分かる。言葉と呼吸を同時に忘れたのか、息を詰める音だけがした。


「これ以上ナオコくんを傷つけるつもりなら、もらっていくからね」

 

 彼は、顔をあげた。


「あの子がいないと、ぼくの国は始まらない。それに彼女だって、あっちの方が幸せだよ? 絶対に自分を見てくれない奴に、拒絶される理由も分からないまま恋するくらいなら」


 マルコは、薄く笑った。


「偽物でも、恋が成就したほうが幸せでしょ?」


 山田の表情から、色が抜けていく。絶望を、興味深く眺めていると、やけに楽しい気分になる。


「ぼくらが幸せになれば、君は満足だろう?」


 ゴウマンな台詞だ、と言いながら思った。だが、それが彼にとっての真実だろう。他己的な情動に支配された男だ。

 

 ――――気持ち悪いんだよ。


 無機質な部屋も、黒い髪も、無意味に作った顔も、茶色い目も、なにもかも嫌だ。見ていて苛々する。 

 渦巻く嫌悪を、しかし、顔にも口にも出さない。ほほえむだけだ。彼に見せる感情なんて、どこにもありやしない。


 ふと、山田の肩から力がぬけた。

「君たちが、それでよいのならば」と、つぶやく。


 予想したとおりの言葉だ。マルコは、口許をゆがめた。


「ただし、きちんと説明しろ。それで、もし、彼女が良いのであれば……」


 覇気なく、目をとじる。


「そのとき、俺に止める資格はない」


「……本当にかわいそうなナオコくん」


 屈服の喜びと、反する苛立ちが、つい口をついて出た。

 

「俺に止める資格はない、だってさ」


 山田は、だまっていた。余計に腹がたつ。


「その様子だと、君はこちら側に残るつもりなんだ」

 

 とどめを刺すつもりで、わざとたずねる。

 

「どうして、ぼくのところに来るつもりがないの?」


「……君は、俺に来てほしいのか?」


「ううん、ぜんぜん!」いっそ狂気的なほど、元気な声がひびいた。


「ぜんっぜん来てほしくないね」


 傷つける意図を明確に、告げる。しかし思惑は外れた。山田は、ちょっとだけ目を丸くして、ふと笑った。


「そうだろう? だからだ」


 なつかしむ笑みだった。理解している。そんな態度だ。

 マルコは、真顔になり、不愉快そうに眉をひそめた。


「あっそ」


「君たちは、もう違う場所で生きるべきなのかもしれない」と、独り言のようにいう。


「だから、俺には君を止められないし、彼女のことも止められない」


 マルコは「ふーん」と言って、ほおをかいた。つまらなさそうな横顔だった。


「じゃ、いいや」


 視線が交錯する。


「元気でやれ」


「言われなくても」


 ふいと顔をそむけて、部屋を後にしようと一歩すすむ。この男の顔を見るのも、最後だろう。かつん、と靴が鳴った。ふりかえる。

 穏やかな瞳が、去りゆく自分を見ていた。薄い茶色の瞳は、コンタクトを入れているからだ。黒い髪は、わざわざ美しい金髪を染めているのだ。整形をしても、色素は変えられない。

 だれでもない、自分のために。


 マルコは、舌打ちをして口を開いた。


「君も、せいぜい元気でやれ」


 山田が、きょとんとした。じろりとにらんで、今度こそ部屋から出る。


 腹立たしくて、早足で進む。深呼吸をする。

 感傷は、捨てていくものへの哀悼だ。そう言い聞かせるのが、自分なのか、それとも別のなにかなのか、マルコには分からなかった。

 ただ一つだけ、確信だけがあった。


 もう、同じ顔を見ることは、お互いにないだろう。



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