Silly
トレンチコートを着た小さな背中が、坂をくだっていく。
マルコ・ジェンキンスは、目を細めて、すぐに来た道をもどった。
彼はマンホールのふたを開け、ためらいなく飛びおりる。音もなく地面に着地して、悠々と歩きだす。裸電球が、申し訳程度に細道を照らす。ひびわれたコンクリートの壁に、青年の影が描かれていた。
扉の前で、足を止める。ノブをひねって押すと、きいい、と高い悲鳴をあげて開いた。
寒々しい部屋である。右手に本棚とベッド、簡素な机と椅子が置いてあり、左手に小さなキッチンと冷蔵庫があった。
部屋の主を象徴するかのような、からっぽの部屋だ。
彼は、壁にもたれて座っていた。心をどこかに捨ててしまったかのように、宙を見つめていた。
「山田くん」
声をかけると、視線だけが向いた。ぼんやりしていた。なにか重大な事柄が、彼の心を奪ったのだろう。そう、マルコは思った。
先刻、夜空の下。マルコは、彼女の目のなかに、これまで発見できなかったものを、ついに見てしまった。
それは、興奮だった。激情だった。赤い色をしているくせに、透明だった。その正体を、いやというほど知っていた。刑が執行されたあとの、処刑場を訪れたような気持ちだった。
「したの?」と、マルコはたずねた。
山田は「なにを」と、ほぼ反射的に答えた。
「セックス」
一歩、足を進める。
「そういう顔をしていたけれど、彼女」
山田は、真顔で見下ろす青年を、うろんげに見た。
「君の目は腐っているんじゃないのか」と吐き捨て、
「なんの用だ」と、聞きなおす。
「じゃあ、未遂?」
にらみつけられる。しかし、言葉は止まらない。
「まさかキス止まりってこともないでしょ。いい年した男女が、二人でいて」
「マルコ、だまれ。下劣な疑いをかけるな」
「彼女は、そういう目をしていたよ。下品だった。見ていて、ヤな気持ち。ね、女の子って成長すると、あんなふうになるもんなんだね、お兄ちゃん?」
「黙れと言っている!」
怒鳴り声がひびいた。山田は、自分の怒声に驚いたように、目を丸くして、苦々しく眉をよせた。
「なんだ、なんにもしていないんだ」
マルコは、冷めた目をしていた。
「可哀そうなナオコくん。悪人に恋するよりも、偽善者に恋するほうが、ずっと大変なんだ」
座りこんだままの青年の肩が、ぴくりと動く。
「ぼくは、彼女がどんなに下品で俗世的でも、受け入れる自信があるよ。唯一無二の存在だもの。でも、ねえ、山田くんは違う。君はあの子を受け容れるつもりがない」
「そんなことは」
「あの子そのものを見るつもりがないから、そうやって拒絶できるんだろ」
「……」
青年は、目をふせた。動揺が手にとるように分かる。言葉と呼吸を同時に忘れたのか、息を詰める音だけがした。
「これ以上ナオコくんを傷つけるつもりなら、もらっていくからね」
彼は、顔をあげた。
「あの子がいないと、ぼくの国は始まらない。それに彼女だって、あっちの方が幸せだよ? 絶対に自分を見てくれない奴に、拒絶される理由も分からないまま恋するくらいなら」
マルコは、薄く笑った。
「偽物でも、恋が成就したほうが幸せでしょ?」
山田の表情から、色が抜けていく。絶望を、興味深く眺めていると、やけに楽しい気分になる。
「ぼくらが幸せになれば、君は満足だろう?」
ゴウマンな台詞だ、と言いながら思った。だが、それが彼にとっての真実だろう。他己的な情動に支配された男だ。
――――気持ち悪いんだよ。
無機質な部屋も、黒い髪も、無意味に作った顔も、茶色い目も、なにもかも嫌だ。見ていて苛々する。
渦巻く嫌悪を、しかし、顔にも口にも出さない。ほほえむだけだ。彼に見せる感情なんて、どこにもありやしない。
ふと、山田の肩から力がぬけた。
「君たちが、それでよいのならば」と、つぶやく。
予想したとおりの言葉だ。マルコは、口許をゆがめた。
「ただし、きちんと説明しろ。それで、もし、彼女が良いのであれば……」
覇気なく、目をとじる。
「そのとき、俺に止める資格はない」
「……本当にかわいそうなナオコくん」
屈服の喜びと、反する苛立ちが、つい口をついて出た。
「俺に止める資格はない、だってさ」
山田は、だまっていた。余計に腹がたつ。
「その様子だと、君はこちら側に残るつもりなんだ」
とどめを刺すつもりで、わざとたずねる。
「どうして、ぼくのところに来るつもりがないの?」
「……君は、俺に来てほしいのか?」
「ううん、ぜんぜん!」いっそ狂気的なほど、元気な声がひびいた。
「ぜんっぜん来てほしくないね」
傷つける意図を明確に、告げる。しかし思惑は外れた。山田は、ちょっとだけ目を丸くして、ふと笑った。
「そうだろう? だからだ」
なつかしむ笑みだった。理解している。そんな態度だ。
マルコは、真顔になり、不愉快そうに眉をひそめた。
「あっそ」
「君たちは、もう違う場所で生きるべきなのかもしれない」と、独り言のようにいう。
「だから、俺には君を止められないし、彼女のことも止められない」
マルコは「ふーん」と言って、ほおをかいた。つまらなさそうな横顔だった。
「じゃ、いいや」
視線が交錯する。
「元気でやれ」
「言われなくても」
ふいと顔をそむけて、部屋を後にしようと一歩すすむ。この男の顔を見るのも、最後だろう。かつん、と靴が鳴った。ふりかえる。
穏やかな瞳が、去りゆく自分を見ていた。薄い茶色の瞳は、コンタクトを入れているからだ。黒い髪は、わざわざ美しい金髪を染めているのだ。整形をしても、色素は変えられない。
だれでもない、自分のために。
マルコは、舌打ちをして口を開いた。
「君も、せいぜい元気でやれ」
山田が、きょとんとした。じろりとにらんで、今度こそ部屋から出る。
腹立たしくて、早足で進む。深呼吸をする。
感傷は、捨てていくものへの哀悼だ。そう言い聞かせるのが、自分なのか、それとも別のなにかなのか、マルコには分からなかった。
ただ一つだけ、確信だけがあった。
もう、同じ顔を見ることは、お互いにないだろう。