熱
山田の私室から追い出されたナオコは、はしごを登って、地上へともどった。
マンホールから顔を出す。小さな公園は、外界から切り離されたようだった。
雑草すら生えていない花壇に座りこむ。帰り道を急ぐ気になれなかった。
コートの前をかきあわせて、空を見上げる。オリオン座が、ぴかぴかと輝いていた。
あの憎しみも、またたくようだった。
ナオコは、熱い息をついた。眼差しが、色鮮やかに思いだされる。
ひざを丸めて、震えを逃がそうと、両手をのばした。目をつむり、顔を落とす。指先が冷えきっていた。だが。体の奥にある熱のせいで、すぐに温まってしまいそうだった。
砂利を踏む音が聞こえた。
「あれ、ナオコくん」
花壇のブロックに、ほそい影か伸びていた。金髪の青年が、目の前にしゃがみこむ。暖かそうな茶色のコートを着て、鼻先をちょっと赤くしていた。
「マルコさん」
「なにしてるの、こんなとこで」
心配そうに、小首をかしげる。
「山田くんにいじめられたかい?」
ぼんやりと青年の顔をみつめていると、その質問は、やけに面白いような気がした。
それで、
「そうなんです、いじめられました」と、茶化した。
「どんなふうに?」
「インスタントコーヒーなんて飲むのは馬鹿げているって、言ってやったんです。そうしたら、コーヒーの味が分かるフリの方が、馬鹿らしいって怒られました」
冗談めかして笑う。ナオコは、彼が冗談にのるだろうと考えていた。
「……そう」
しかし、目に走ったのは、不信感の陰りだった。
「えっと、うそですけれどね」
焦って弁解する。彼は口を閉ざしている。その表情は、不機嫌そうでも苦しそうでもない。ただ、内心のわだかまりを、隠す気もなさそうだった。
話題に困って、ほおをかく。
「あの、マルコさんこそ、どうかしましたか? 山田さんなら、お部屋にいますけれど」
「いや、彼に用はないんだ」
「明日の午後、アメリカに行かれるんですよね?」
彼は、うなずいた。瞳孔がぽわっとぼけて、虚ろなかんじがした。
「じゃあ、早く休まれたほうがいいんじゃ……」
忙しい上司の体を、気遣って出た言葉だった。
しかし、彼は寂しそうな顔をした。
「ぼくがここに居ると邪魔?」
「いえ、そういう意味では」
ぎょっとして、否定する。すると、彼は口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……でも、本当のこと、言ってくれないね」
彼女は、言葉をなくした。裏切りにあった子供のようなまなざしが、ちくりと刺さる。
しかし、彼はすぐに顔つきを変えた。
にこりとして、
「新型の精神分離機の話、聞いているよね?」と、たずねる。
「あ、はい。噂では」と、うなずく。
「それで、今回の出張が決まったって、聞いていますけど」
「うん、そのとおり。突然の決定だったから、ちょっと君たちを戸惑わせたみたいだけど」
ナオコは、言葉に困って視線を泳がせた。〈芋虫〉たちの何人かが、突然の出張に疑問を抱いていることは事実だ。
「……これが実用化されれば、今までより、ずっと仕事が安全になると思う。新藤さんみたいな犠牲を生まなくてすむ」
由紀恵の名前が出て、ナオコはハッとした。青年は、実直そうな真顔に、少しだけ笑みを混ぜた。
「ナオコくんが生傷だらけになるのも、防げるね」
「それは、よかったです」と、笑いかえす。
「研究のこととか、難しいことは、わたしには分からないですけれど……でも、マルコさん、言っていましたもんね。後続機の開発が、なかなかうまくいかないって」
今年の八月。アルフレッドの話を聞いた時分を、思いだす。
あのとき、初めて彼の素顔に触れた気がした。成功者たる彼が、自分と同じ孤児であること。養父を愛していることを知って、激しく共感した。尊敬できる人なのだ、と憧れた。
そして、その拭いがたい信頼感は、今でも心の底にある。
「それでね、明日のことなんだけど」
マルコが、ふいに声の調子を変えた。
「その新型っていうのが、実に繊細な機械でね。トランクにつっこんで持ち運ぶのは、ちょっと怖いんだ」と、ほおをかく。
「常駐警備部の子たちに、荷運びをしてもらおうか、と思っていたんだけど、シフトの関係でダメになっちゃって……悪いんだけど、君と相浦くんに頼んでもいいかな?」
「もちろんです。そうですね、最近、うちの部のほうが常駐警備部より暇ですから……」
「それは、とてもいいことだけどね」
マルコは笑った。
「あ、でも、リリーもいるんですよね?」
「うん。ただ彼女には、別の仕事を頼んでいてね」
「そうなんですね。了解です」
新型の精神分離機が、どのようなモノなのかは分からなかったが、特に拒否する理由はない。
「それじゃあ、そうだな。十七時の便に乗る予定だから……正午かな。執務室に来てもらってもいい?」
「わかりました」
しっかりとうなずき、手帳にメモをとる。
「車ですよね?」
「うん。運転は相浦くんに任せようかな。ナオコくんには、しっかりと宝物を抱えていてもらうとするよ。明日、時間があったら二人に見せるね」
「はい、ぜひ!」
ナオコが顔を輝かせると、彼はうれしそうに目元をゆるめた。
話を終えると、彼が立ち上がった。
「そこまで送るよ」と、さりげなく帰宅を勧められる。
門の前で止まり、
「それじゃあ、また明日」と、手を振る。
「ええ、マルコさんも早く休んでくださいね」
まだ仕事が残っているらしき彼を、そう気遣う。
「ふふ、ありがとう。おやすみ」
彼は、肩を少しすぼめて、クスリと笑った。
「おやすみなさい」
ちょっと頭を下げて、帰り道へ足を踏みだす。すこし進んで、なんとなく、胸の中を風が通ったような感覚がした。ふりかえる。
坂の上、細くなった夜空の下には、すでにだれも居なかった。