盲目×4
「そこに座れ」
と、山田が、ベッドをあごでさす。ナオコはためらった。すると、もう一つのコップを差し出されたので、つい受け取ってしまった。
「いいから、座れ。この後、予定があるわけでもないだろう」
「そうですけれど」
「ならいいだろう」
肩を押され、なかば強制的にベッドに腰をおろす。山田も椅子につき、膝を組んだ。目がすわっていた。 ナオコは、急に不安になった。
彼は、すぐには話しださなかった。ぐいっとコーヒーを飲み干し、机にやや乱暴にコップを置く。
「いいか、よく聞け」
「は、はい」かしこまって、背筋をのばす。
彼は、真剣な面持ちで、口をひらいた。
「君が俺を好きになるなんてことは、ありえないんだ」
「……は?」
「空から槍がふろうが、天地がひっくり返ろうが、ありえない。きっと、飯田さんの件があって情緒が混乱しているんだろう」
「え、ええ?」
「勘違いなんだ。だから、いったん冷静に」
切々と訴えられて、あぜんとした。
「いや、山田さん。それはないでしょ」
切ない緊張は、どこかへ吹っ飛んでいた。
口元をひきつらせて、
「わたしのこと、バカにしているんですか」と、言った。
「していない。辛いのも、寂しいのも分かるつもりだ。だから」
「バカにしてますよ!」
思わず立ち上がる。
「全然わたしの話、聞いていないじゃないですか!」
コーヒーがこぼれそうになった。慌ててバランスをとり、それから、困り顔の青年をにらみなおす。
「わたしは、あなたが好きだって言っているんです。それがなんですか、勘違いだなんだって……」
「だから、そのとおりだ。勘違いなんだ。君が、俺に恋情をむけるはずがない」
「どうしてです!」
噛みつくと、勢いに触発されたのか、彼も目をとがらせた。
「そもそもだな、君は、飯田さんのような男が好みだろう? どうして急に俺に行く。やはり情緒不安定なんだ」
「だからっ、最初から山田さんが好きだって言っているじゃないですか!」
「それこそが、大いなる勘違いだ。いいか、君は寂しさにおかしくなっているだけだ……よし、精神科に行け。安定剤でもなんでも処方してもらえ」
業を煮やしたのか、そうまくしたてる。
ナオコは、ハッとして、うつむいた。腹の奥で燃えていた怒りに、冷や水をかけられたようだった。
ここまで拒絶されるとは、想像もしていなかったのだ。気まずく思われたり、最悪の場合は避けられる可能性も予測していた。だが、気持ちからして否定されるとは。
彼は、しまったと言いたげな顔をして、
「とにかく、そうだな、休みでもとって、安定する時間を……」と、話しだした。
「気が変わりました」
「……なに?」
憎き青年を、ぎろりとにらみあげる。涙目が、追いつめられた者の迫力をやどしていた。
「本当は、気持ちを伝えるだけで十分だと思っていたんですけれど。気が変わりました」
こぶしを握って、指をつきつける。
「そんなに信じられないっていうなら、証明してみせますよ。わたしが、どれだけ山田さんを好きかってこと!」
「……大声でなにを叫んでいるんだ」
顔をゆがめて、そう吐き捨てる。
「信じる信じないの話じゃないんだ。分からないか?」
「分かるわけないでしょう! いいです。そっちがそういうつもりなら、遠慮しませんからね」
もはや自棄だった。叫んでから、コーヒーを一気飲みする。バッグを手に、飛びあがるように立ちあがった。
「おい、ナオコくん!」
部屋から出ようとする彼女を、山田が引き留めた。
「ちょっとは落ちつけ! 話は終わっていないだろう!」
「もう話すことなんてないです!」と、わめきながら玄関にむかう。
すると、彼が困惑を顔に貼りつけて、前に立ちふさがった。そうっと背中を押される。
「ほら、いい子だから戻れ」
まるで小さい子どもに話しかけるような、抑えた声だ。ナオコの怒りが、余計に増した。
ぱっとふりかえり、シャツのえりを掴みかかる。びっくりした顔を、ねめつける。
「言っておきますけど、なんであなたが好きなのか、全然分からないです。人の話聞かないし、わがままだし、子供みたいに扱うし!」
大きく息を吸う。
「でも、あなたがいないとダメなんです!」
必死だった。手のひらに、力がこもる。気持ちを伝えても、こわばった表情であることが悔しかった。
「これだけ言っても、どうせ分からないんでしょうけれど。でもっ」
「ナオコくん」と、呼ばれる。しかし、言葉は止まらない。
「あなたが、わたしを必要としていなくても、わたしにはあなたが必要なんです」
そこで、手がはがされた。宙に浮いた指先が、逆に捕まえられる。泣きそうな顔を、うつむいて隠した。手を振り払おうとしたが、離れなかった。
「俺の話も聞け」
彼は、言い含めるように話した。
「君が要らないなんて言っていない」
「でも」
「ただ、恋愛じゃない。そんな安っぽいものに、気持ちを左右されないでくれ」
顔をあげる。
「そんな気持ちは、すぐに変わってしまうだろう。そうしたら、また、俺を」
その後の言葉は、引き取られてしまって、聞こえなかった。
両肩に手が置かれていた。なにかを耐えるように、唇を噛む。
「やまださ」
「分かってくれ」
青年は傷ついた表情を、隠しもしなかった。
「俺にも君が必要なんだ。おそらく、君が思うよりもずっと」
ナオコは、目を見開いた。
「ただ、恋愛じゃない。そんなものではない。そんなもの」
声が震えていた。
「信用できるものか。俺を必要としていないのは、君のほうだろう」
血を吐くような叫びだった。彼女は、耳をうたがった。
次の瞬間、突き飛ばされた。距離が開く。たたずむ青年は、自らの言に激しいショックを受けているようだった。数歩後ずさりして、憎々し気ににらみつける。初めて見る、青年の素顔だった。
「出て行け」絞り出すように言った。
「はやく」
ナオコは、呆然としていた。彼は、泣きそうな顔をしていた。
「山田さん」
「……頼むから、出ていってくれ」
胸の中に、巨大な穴があいていた。彼をなぐさめたかったが、自分が傷つけた以上、なにもしてやれない。ただ、立ち去ることしか許されていない。
ナオコは、ゆっくりと扉へと向かった。部屋を出るまえに、ふりかえった。
顔を手でおおい、その場に立ちすくんでいる。彼女は、口を少しひらき、とじた。悲し気に目をふせ、扉を閉じた。