表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
129/173

盲目

 十八時、ナオコは実家を出発した。京王線に乗りこむ。この時間、上り電車は空いている。はじの方に座ると、足の下から温風が吹いていた。

 バッグを膝に乗せ、ウォークマンのイヤフォンを耳にさす。目をつむる。ロック、クラシック、ポップス。なんの曲が流れているのか、判別つかなかった。考え事に夢中だったのだ。

 電車が何回も停まり、また出発した。やがて、明大前に停まったので、井の頭線に乗りかえる。

 ホームは、大混雑だった。押し合いへし合いしながら車両に乗りこんで、曲を聞きつづける。

 渋谷駅につき、通いなれた道を歩くときには、考えはまとまりかけていた。だが、覚悟が決まったわけではない。現実感がなく、ふわふわした気持ちだった。


 底冷えのする夜だった。すれ違う人の口から、白い吐息がたなびく。

 坂をゆっくりと登っていく。白いモダンな社屋が、澄んだ夜空に、ぽっかりと浮かんだ。大きく深呼吸をして、携帯をとりだす。十九時四十分。電話をかける。

 画面を耳に押し当てる。規則的な着信音と共鳴して、鼓動がだんだんと高まっていく。


「ナオコくんか?」


「山田さん?」


 彼女の声は、うわずっていた。


「あの、今から、そちらに向かってもいいですか?」


「……構わないが」


「じゃあ、うかがいます」


 すぐに電話を切って、彼の私室へと足を向ける。足早に駐輪場を通りぬけ、生垣をくぐった。マンホールの中を降りて、地下道を歩く。

 扉をひかえめにノックすると、山田が現れた。彼女が直ちに訪れたので、驚いた様子だった。


「今日は、半休をとったと聞いていたが」


「そうですよ」


 部屋に入れてもらう。電話をした際に予想はしていたが、やはり、リリーは居なかった。

 ごくり、とつばを飲みほす。

 もし来訪を拒否されたら、おとなしく帰るつもりだった。しかし現実は、不思議なほどうまくいった。


「オフィスに顔を出していないよな? なにか用なのか」と、怪訝そうにたずねられる。


「いえ」首をちいさく横にふる。


 バッグを両手に抱えて、立ちすくむ。

 彼は、疑念を深めたようだった。座るように指示されたので、ベッドに腰かける。彼は、小さなキッチンに立って、やかんに水を入れた。

 ナオコは、じっとうつむいていた。何度か、気に掛けるような視線を感じた。だが、顔を見る勇気が出なかった。緊張が手足を冷やし、心音ばかりがうるさい。


 しばらくして、コーヒーの香りが流れた。インスタントだろうな、と思う。

 山田は、食にこだわりがない。この香りにも、あまり気を留めていないはずだ。苦くて黒いカフェイン入りの温かい飲み物として、習慣的に淹れているだけだろう。


 目を上げる。

 やかんを傾けていた青年は、見られていると気付き、まばたきをした。小首をかしげて、ちょっと笑う。再びコップに目を落とす。

 たった二つ、真っ白でシンプルな安物だった。


 


「好きです」




 銀色のシンクに、湯気がたった。お湯がこぼれたのだ。

 山田は、あわてて足をのかし、やかんをコンロの上にもどした。

 手を柄にかけたまま、停止している。シンクを拭くべきか、それともコップを避難させるべきか迷っているようだった。

 ナオコが、腰をあげようとした。


「待て」


 彼は、やかんを見つめたまま、そう制止した。

 おとなしく座りなおす。


 永遠に近い時間が流れたような気がしたが、実際は十秒たらずだった。

 彼は目をいったん閉じ、ひらいた。その場で、ゆっくりとふりかえる。たっぷり深呼吸をしてから、

「なんだって?」と、聞きかえす。


「ですから、山田さんが好きです」


 彼は、再び固まってしまった。


「告白しています」


 一言一言、しっかりと発音する。


「わかりますか?」


「わかるわけがないだろう」


 彼は、片手を額にあてて、息をついた。


「いったいどうしたんだ……待て、ああ、いや、わかった」


 ぶつぶつと言ってから、

「ショックなのは、わかる」と、ナオコを見すえた。動揺を押し殺していた。


「飯田さんのことは、本当に辛いことだった。だから、俺にできることなら……」


「ううん、そういうことじゃないんです」


 彼がそういった思考に至ることは、予想している。思いもしない形で飯田と別れて、まだ一週間たらずだ。

 気変わりの早い女だと思われるリスクを、承知している。それでも、できるだけ早く伝えなければならなかった。後悔しないために、一歩踏み出すために、気持ちを伝えたのだ。


「わたしは、ずっと山田さんが好きでした。飯田さんと交際しているときから、そうです。彼も、それを知っていました」


 いよいよ彼は、言葉をなくした。


「ああいう形で別れたから、伝えているんじゃありません」と、きっぱり否定する。


「わたしは、あなたが好きでした。あのとき、バディを解消してから、ずっと」


 いったん口を閉じる。彼は、顔色をなくしている。

 深刻に聞こえないように、無理やりほほえむ。


「もちろん、これを聞いて、どうしてほしいとは思っていません。これは、わたしのわがままです。ただ、言わなきゃいけない、と思ったから」


 山田の手が、コップをつかみ、口元にはこんだ。その目は、動揺の色をかくさず、なにも見えていないようだった。


「えっと、すみません。困らせて」


 そそくさと立ち上がり、バッグを持つ。


「明日からは、また普通にしますから。これからもよろしくお願いします」


「待て」


 コップを、口元に当てたままだった。光の宿っていない目が、ナオコをにらんでいる。


「言い逃げするつもりか?」


 機械のように低く沈んだ声に、戸惑う。これ以上居ても、彼を困らせるだけだと思いこんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ