盲目
十八時、ナオコは実家を出発した。京王線に乗りこむ。この時間、上り電車は空いている。はじの方に座ると、足の下から温風が吹いていた。
バッグを膝に乗せ、ウォークマンのイヤフォンを耳にさす。目をつむる。ロック、クラシック、ポップス。なんの曲が流れているのか、判別つかなかった。考え事に夢中だったのだ。
電車が何回も停まり、また出発した。やがて、明大前に停まったので、井の頭線に乗りかえる。
ホームは、大混雑だった。押し合いへし合いしながら車両に乗りこんで、曲を聞きつづける。
渋谷駅につき、通いなれた道を歩くときには、考えはまとまりかけていた。だが、覚悟が決まったわけではない。現実感がなく、ふわふわした気持ちだった。
底冷えのする夜だった。すれ違う人の口から、白い吐息がたなびく。
坂をゆっくりと登っていく。白いモダンな社屋が、澄んだ夜空に、ぽっかりと浮かんだ。大きく深呼吸をして、携帯をとりだす。十九時四十分。電話をかける。
画面を耳に押し当てる。規則的な着信音と共鳴して、鼓動がだんだんと高まっていく。
「ナオコくんか?」
「山田さん?」
彼女の声は、うわずっていた。
「あの、今から、そちらに向かってもいいですか?」
「……構わないが」
「じゃあ、うかがいます」
すぐに電話を切って、彼の私室へと足を向ける。足早に駐輪場を通りぬけ、生垣をくぐった。マンホールの中を降りて、地下道を歩く。
扉をひかえめにノックすると、山田が現れた。彼女が直ちに訪れたので、驚いた様子だった。
「今日は、半休をとったと聞いていたが」
「そうですよ」
部屋に入れてもらう。電話をした際に予想はしていたが、やはり、リリーは居なかった。
ごくり、とつばを飲みほす。
もし来訪を拒否されたら、おとなしく帰るつもりだった。しかし現実は、不思議なほどうまくいった。
「オフィスに顔を出していないよな? なにか用なのか」と、怪訝そうにたずねられる。
「いえ」首をちいさく横にふる。
バッグを両手に抱えて、立ちすくむ。
彼は、疑念を深めたようだった。座るように指示されたので、ベッドに腰かける。彼は、小さなキッチンに立って、やかんに水を入れた。
ナオコは、じっとうつむいていた。何度か、気に掛けるような視線を感じた。だが、顔を見る勇気が出なかった。緊張が手足を冷やし、心音ばかりがうるさい。
しばらくして、コーヒーの香りが流れた。インスタントだろうな、と思う。
山田は、食にこだわりがない。この香りにも、あまり気を留めていないはずだ。苦くて黒いカフェイン入りの温かい飲み物として、習慣的に淹れているだけだろう。
目を上げる。
やかんを傾けていた青年は、見られていると気付き、まばたきをした。小首をかしげて、ちょっと笑う。再びコップに目を落とす。
たった二つ、真っ白でシンプルな安物だった。
「好きです」
銀色のシンクに、湯気がたった。お湯がこぼれたのだ。
山田は、あわてて足をのかし、やかんをコンロの上にもどした。
手を柄にかけたまま、停止している。シンクを拭くべきか、それともコップを避難させるべきか迷っているようだった。
ナオコが、腰をあげようとした。
「待て」
彼は、やかんを見つめたまま、そう制止した。
おとなしく座りなおす。
永遠に近い時間が流れたような気がしたが、実際は十秒たらずだった。
彼は目をいったん閉じ、ひらいた。その場で、ゆっくりとふりかえる。たっぷり深呼吸をしてから、
「なんだって?」と、聞きかえす。
「ですから、山田さんが好きです」
彼は、再び固まってしまった。
「告白しています」
一言一言、しっかりと発音する。
「わかりますか?」
「わかるわけがないだろう」
彼は、片手を額にあてて、息をついた。
「いったいどうしたんだ……待て、ああ、いや、わかった」
ぶつぶつと言ってから、
「ショックなのは、わかる」と、ナオコを見すえた。動揺を押し殺していた。
「飯田さんのことは、本当に辛いことだった。だから、俺にできることなら……」
「ううん、そういうことじゃないんです」
彼がそういった思考に至ることは、予想している。思いもしない形で飯田と別れて、まだ一週間たらずだ。
気変わりの早い女だと思われるリスクを、承知している。それでも、できるだけ早く伝えなければならなかった。後悔しないために、一歩踏み出すために、気持ちを伝えたのだ。
「わたしは、ずっと山田さんが好きでした。飯田さんと交際しているときから、そうです。彼も、それを知っていました」
いよいよ彼は、言葉をなくした。
「ああいう形で別れたから、伝えているんじゃありません」と、きっぱり否定する。
「わたしは、あなたが好きでした。あのとき、バディを解消してから、ずっと」
いったん口を閉じる。彼は、顔色をなくしている。
深刻に聞こえないように、無理やりほほえむ。
「もちろん、これを聞いて、どうしてほしいとは思っていません。これは、わたしのわがままです。ただ、言わなきゃいけない、と思ったから」
山田の手が、コップをつかみ、口元にはこんだ。その目は、動揺の色をかくさず、なにも見えていないようだった。
「えっと、すみません。困らせて」
そそくさと立ち上がり、バッグを持つ。
「明日からは、また普通にしますから。これからもよろしくお願いします」
「待て」
コップを、口元に当てたままだった。光の宿っていない目が、ナオコをにらんでいる。
「言い逃げするつもりか?」
機械のように低く沈んだ声に、戸惑う。これ以上居ても、彼を困らせるだけだと思いこんでいた。