国字
映画を観終えて、いったん休憩をはさんだ。新之助が、ワインを一杯づつ入れてくれた。
平日の昼間から飲酒する贅沢を味わいつつ、よもやま話をしていると、ふいに伊代が二階へとあがった。
トイレだろうか、と考えていると、伊予はすぐに戻ってきた。カラフルなアルバムを、何冊も抱えている。
「どうしたの」
「えへへ、思い出」
伊予は、へらりと笑った。今日で五十五歳になる彼女だが、子供っぽい一面を残した女性だった。その突飛な行動に慣れている新之助は、
「なつかしいなあ」と一言ですまし、机に積まれたアルバムをめくりはじめた。
肩をすくめたが、興味をそそられた。一番手前の、ピンク色を手にとる。めくると、伊予と新之助が写っていた。かなり若い。どうやら、新婚当時の写真のようだ。
「結婚式ってあげなかったんだっけ?」
「そうよ。この人もあたしも忙しかったから」
伊予は、アルバムに目を落としながら話した。
「家の資金にしたほうがいいだろうっていう、賢明な考えだ」
横から写真をのぞきこみ、新之助が、つけくわえる。
「なるほど」
ナオコは、のびのびと笑った。二人は、いまでも恋人同士のように仲睦まじいが、若い彼らは、また異なる雰囲気を漂わせていた。こちらが微笑ましくなってしまうほど、甘酸っぱい感じだ。
海沿いの道、自転車を前に、伊予がポーズを撮っている。その次のショットで、新之助が彼女を抱きかかえて、はしゃいでいる姿。カメラのぶれが、楽しさの熱量を伝える。
「ナオコも、いい人が見つかるといいんだけどねえ」
と、伊予がつぶやく。両親のアルバムをうれしそうにめくる姿に、ついもらしてしまった、という様子だ。すると、すかさず新之助が、反応した。
「いまどき、女性だからといって恋愛第一でもないだろう」と、口先をとがらせる。
ひときわ、その話題に敏感なのだ。時流に遅れてはいかん、が口癖だからだ。
「ナオコよ、こんな過去の遺物おばさんの放言なんて、聞かなくていいからな」
「なによう、あなたは娘を嫁に出すのが嫌なだけでしょ」
むっとして、夫をにらむ。
「そっちこそ過去の遺物おじさんのくせして。ね、聞いてよ。この人、このあいだ後輩の結婚式でさ……」
「あーあー、それは話さんでいい」
新之助が両手をふって、話をさえぎった。
痴話げんかに、ナオコは苦笑した。
「まあ、結婚はね、したいけど」
「いい人はいないの?」と、伊予が食い気味に聞く。
思考がぴたりと固まる。「このあいだまでは居た」と答えようかと思い、やはりやめた。もう傷は癒えていると実感しているが、話題には出したくなかった。
「いないねえ」と、答える。伊予はあからさまにがっかりした。
「なんでよ。あたしがナオコくらいのころは、もっとブイブイ言わせてたわよ」
「具体的には?」と、新之助がちゃかす。
「そりゃあディスコでしょ。お立ち台の和製マドンナといえば、このあたしのことだったんですから」
「信じるなよ。あの時の母さんの異名は、妖怪トイレこもりだ。二人でディスコに行くと、一時間も待たずに、トイレで吐き続けていたからな」
伊予は、夫をねめつけた。
「ナオコ、こういう男と結婚しちゃダメよ。今だから言いますけど、この人すっごい女たらしでね。あたしの後輩、二人くらい弄んでんのよ」
新之助の顔色が変わった。
「おいおいおい、それは付き合うまえの話だろ」
「それでね、後輩二人があたしに泣きついてきたから、それじゃあ伊予さん、このスケコマシに、お灸をすえてやりましょうって思って、文句言いにいったわけ」
「あ、その話聞いたかも」と、ナオコは言った。
「母さんが父さんのパソコンにお茶ぶちまけちゃって、その弁償をする羽目になったんでしょ」
「そうそう」と、新之助が渋い顔をした。
「なぜか母さんが泣いて、俺が上司に怒られた。なんにも悪くないのに」
「悪いでしょう。若い女の子を三人も泣かして。ね、ナオコ。こういう男はダメよ。皮肉屋で自分勝手で、女遊びがすごい!」
人差し指を、びしりと立てる。
「あたしは、ナオコには、父さんの反対の男を推奨するわ!」
「傷つくなあ」新之助がぼやく。
ナオコは笑っていたが、内心で冷や汗をながしていた。皮肉屋で自分勝手で女遊びのすごい男、と聞いて、思いつく男性は一人しかいない。
にわかに恥ずかしくなり、顔を手であおぐ。伊予と新之助は、いまだに丁々発止の言い合いをしている。
別のアルバムに手を伸ばした。めくると、幼いころの自分が写っていた。
フローリングにすわった子供は、頬が林檎のように赤く、水色のセーターを着ていた。自由帳にものを書いている。写真の右下に、二〇〇〇年二月二十五日と、印字されている。
「ああ、これ」
伊予が、横から写真をのぞきこんだ。
「ちょうど、あんたが来て一年だねって言って、撮ったのよ」
「なにしてるんだろ」
ナオコが不思議がると、新之助がうれしそうに「へたっぴな絵」と、次の写真を指さした。
自由帳のアップが写っていた。黒いクレヨンで、三人の棒人間が描かれている。ぐしゃぐしゃと線が重なっているのが、申しわけ程度の肉づけのようだ。
「俺たちを描いてくれたんじゃないのか、ナオコ画伯よ」
「ええ、そうなの?」
苦笑して、写真を眺める。よくみると、棒人間の下に、ミミズが這ったような文様が書かれている。
「うわあ」と、声をあげる。
「そっか、この頃から、そうだったんだ……」
伊予は、すぐに感づいたのか「そうよお」と、うなずいた。
「たしか、この時くらいから、直そうとしたんだけどね。なかなか難しくて」
「そりゃあ、大変だったもの」
ナオコは、頬をかいた。
文様は「おかあさん」と「おとうさん」と「なおこ」を表している。そう、彼女は知っていた。ただ、解読が難しい文字だ。それには、子供のまずい字であるからという理由のみならず、別の原因があった。
「初めて見たとき、ちょっと感動したよな」と、新之助がつぶやく。
「いや、不謹慎かもしれんが……人間の脳みそっていうのは、神秘的だと思ったよ」
「そうねえ、たしかに」伊予も同意した。
ナオコは「それなら、よかったけど」と笑った。
自由帳の文字を、人差し指でなぞる。
左から、
んさあかお んさうとお こおな
と、書かれている。
「こ」だけが、なんとか読み取れる。ほかの文字は、すべて裏返っていた。
「今でも書こうと思えば、書けるだろ? 鏡文字」
新之助の質問に、ナオコは笑ってうなずいた。