国語
翌日から、ナオコは普段通り出勤した。
特殊警備部の仲間が、心配してくれたが、元気よく「もう大丈夫」と、返すにとどめた。するとケビンだけが「そうかよ」と、通常の態度で接してくれたので、ありがたく思った。
またもや〈虚像〉が人型をとったことは、話題になっていなかった。前回の異常種の件にしかり、マルコが上手く隠蔽してくれたようだ。
それよりも、彼自身のことが噂になっている。唐突に出張が決まったのだ。十二月十三日、午後の便で、彼はロサンゼルスに飛ぶ予定だった。
「精神分離機の後続機を、発表するんだってよ」
オフィスも食堂も、その話でもちきりだった。
「聞いた話では、あと五年はかかるってことだったが。マルコさんは、いつ開発を終えたんだろうな」
「これで仕事が楽になるわけかあ。しかし、急だよなあ。俺たちに、先に話してくれてもよさそうなのに」
彼らが不思議に思うのも、無理はなかった。これまでマルコは、現場の人間とコンタクトを密にとっていた。後続機の完成という重大事項が近々に迫っているならば、誰かが耳に挟んでいてもおかしくないのだ。特別、秘密にする必要のあることにも思えない。
また、その出張にリリーが同伴することも、関心をひいた。
二人の関係を邪推して、
「マルコさんも、ついに会社の金で旅行へ行くようになったんだな」などと嘆く不届き者もいた。
「本社組だから、その関係で着いていくだけだって信じたいけど」
「まあ、恋人を置いていきたくはないだろう」
大半は、そのようにマルコをかばった。その背景には、リリーの態度の変化があった。
彼女は、この一週間で人が変わってしまったようだった。以前は、なにかといえば山田に引っ付いていたのだが、最近は彼から磁力がなくなったように離れている。
彼女の兄にたいする愛情のベクトルが、マルコへ向いたように、周囲には感じられた。彼女がマルコと一緒にいる場面が、よく目撃されたからだ。
特殊警備部の人間は、大方、彼らの恋を応援する気になっていた。オフィスで山田についてまわられるよりは、自分たちの尊敬するCEOであるマルコと仲睦まじいほうが、ありがたかったのだ。
一週間後、ケビンとも、後続機の話題になった。
「後続機はなにが変わるんだろうな?」と、口にしていた。
「具体的な説明を、なにもされていないわけだが……」
ナオコは「うーん」と、うなって
「バルスって叫ぶと〈虚像〉が一瞬にして灰になる機能がついている、とか」
「なるほどな? その場合、俺たちはもれなくラピュタ王の末裔じゃねえとダメだけどな」
真面目に考える気がないと悟ると、ケビンはその話題を切りあげた。
もちろん、ナオコも、この問題にたいして関心がないわけではない。ただ、それどころではなかったのだ。この七日間、ある心づもりを固めるのに必死だった。
飯田と別れてから、それはずっとナオコの頭のなかにあった。
後悔しないで、とのセリフを思いだす。
そろそろ前に進まなければいけない、と逸る決意が、彼女の胸にうずまいていた。
十二月十日月曜日、ナオコは半休をとった。
先日、異常種が出現して以降〈虚像〉の動きは、驚くほどおだやかだった。そのため、簡単に休みをとることができた。基本的に班の休みは同時にとる必要があるため、ケビンも半休を取らざるをえなかったのだが、母親の見舞いに行くと言って、ナオコの頼みを快諾してくれた。
そんな経緯があって、ナオコはその日の午後二時、八王子市内の実家をおとずれていた。
両親と三人でソファに腰かけ、煌々と光るテレビにかじりついていた。画面に『君によむ物語』のラストシーンが流れている。
50代半ばの女性が、しきりに鼻をすすっていた。
「つらい」と時折つぶやいて、ティッシュを目元に当てている。ナオコは、涙もろい母親を尻目に苦笑した。反面「弱いなあ」と、あざ笑ったのは、父親である。
「母さん、これ何回観てるんだ?」
「十二回? あ、でも何回か寝たから、正味十回くらいかな」
エンドロールを眺めながら、ナオコは「好きな映画なのに」と、笑った。
「なんで寝ちゃうの」
「だって眠いんだもの」と、頬をふくらませる。
今日は、ナオコの母親である、中村伊代の誕生日だった。
八月に帰省したさい、今年中に一回は顔を見せに行くと約束をしていたため、今日は彼らと過ごす予定だった。