日曜日の似合う恋
「どうして」
口走ってから、目をふせる。そんなことを言う資格はないと、十分に分かっていた。
「あのとき、あの人が助けにきたね」
飯田は、淡々と言葉をつむいだ。
「山田さん、だっけ。ぼくは動けなくて、その光景を見ているだけだった。怪我を手当てしてくれた。そのあと、君に話しかけていた」
わずかに青ざめる。あのとき、飯田は失神しているものだと思っていた。
「ナオコちゃん、君は泣いていたね」と、苦笑する。
「本当にあのとき、悔しかった」
彼の目は見開かれ、きらきらと光っていた。昨晩の記憶が、まざまざと思いだされているようだった。
「地べたに横たわって、黙って見ていることしかできなかった。情けなかったよ」
「……達也さん」
罪悪感に耐えきれず、謝罪を口にしかける。しかし、飯田が強く見据えるので、なんとか言葉を押しとどめた。
「いいんだ。それは……あのね、僕が悔しかったのは、なによりも、君が、あの人の前では泣けるって知ったことだ」
彼は、その時の光景を思い出すように、目をつむった。
「謝っていたね。ナオコちゃん」
ナオコは、昨晩の出来事を断片的にしか、覚えていなかった。飯田が怪我をして、パニックに陥っていたからだ。ただ、潰れそうな自分を、山田が抱き留めてくれたことだけ覚えていた。
迷惑をかけて、ごめんなさい。そう謝った気がする。しかし、その記憶は罪悪感とは程遠い、みじめな甘さを湛えている。
あんな風に抱きしめられたことが、心の奥にこびりついている。そう自覚するほどに、自分をいっそのこと、殺したくなった。
「ぼくらは、いつも謝ってばかりだけど……昨日、君のごめんなさいは、違うふうに聞こえた」
彼は、その罪悪感を見透かしているようだった。
「君は、ぼくの前では泣かない」
断定的だった。
「付き合いが浅いからじゃない。ぼくのことが嫌いだからでもない。ただ、君はあの人の前じゃないと泣かないんだ」
「そんなこと」
「ぼくは、君を感情的にさせられない」
口をつぐむ。それほどまでに、彼の言葉は強く、悲痛な思いを宿していた。
「ナオコちゃんを動かすのは、いつも彼に関することばかりだ」
飯田はつづけた。
「君は優しいから、ぼくを好いてくれているのは本当だと思う。でも、それは、好意にすぎないだろう? ぼくが、君に抱いているものとは違う」
ふいに腕がつかまれた。ナオコの肩が、はねる。
「わかるよね」
じっと目をすえられる。
「好意じゃないだろう? ぼくが君に抱いているものも、君が、彼に抱いているものも」
「……ええ」
腕を、そっと外す。彼は、悲し気な目をした。
「でも」
言葉をしぼりだした。
「わたしは、達也さんが好きです」
それが残酷なセリフだと、よく分かっていた。
それでも、伝えなければならなかった。そうしたところで、お互いに傷つくのだとしても、言葉にしなければならない。飯田から教わったことだ。
「ぼくは、君が嫌いだ」
痛みを耐えて、皮肉にゆがんだ笑顔だった。
「ナオコちゃん、本当に、君が嫌いだよ」
沈黙が、痛々しく二人の胸を刺す。もう言葉は、なんの役にもたたなかった。
彼は、片手を額に当てたまま、ずっと黙っていた。ナオコは、断罪を待つ罪人のように、唇を噛んでいた。
「クリスマスライブがあるんだ」
唐突な言葉に、顔をあげる。
「観にきて。絶対に」と、つづける。
「ナオコちゃんに、見てもらわないといけないんだ」
「行きます」
誓いをたてるように、しっかりとうなずく。
「絶対に行きます」
その答えは、彼を安心させたようだった。厳しい目元が、やわらかくゆるむ。
「よかった」
椅子から、ゆっくりと立ちあがった。カバンの中から、そっと携帯を取りだす。
飯田は、かたずをのんで見守っていた。
「達也さん」と、口をひらく。
「言わなきゃいけないことがあって」
「わかってるよ。これでも、日本のアニメ育ちだ」
彼は、ほがらかに笑った。
「謎の組織の秘密を知った一般人が、もれなくどうなるかは、知っているんだ」
ナオコは、なにも言えなかった。あとは右手をかざすだけだった。
鉄の塊でも握りしめているかのように、腕が上がらない。震える手を抑えつける。これ以上、甘えた態度を示すことは許されない。
「カッコつけて、ごめんね……でも、ひとつだけ言わせて。ナオコちゃん」
「はい」
「ぼくは、君に会えて、本当に助けられた。背中を押してもらえた。だから、後悔しないで。君は本当は強いんだから」
そこで、飯田は目をぱちぱちさせた。うれしそうに、口元をゆるめる。
てのひらが頬に触れた。流れているものを、人差し指がぬぐう。
「ずるいんだから」
「……ごめんなさい」
「ううん、そうじゃないよね」
どこか先生めいた、彼らしい口調だった。つい、笑ってしまった。喉のおくが痛かった。
右手を、眼前にかかげる。愛おし気な瞳と、目が合う。
「ありがとう」
フラッシュが、病室をつつんだ。頬から、体温が離れる。
病室を出ると、山田が壁にもたれて待っていた。
午後14時。穏やかな昼下がりだ。日差しが、廊下にもあふれていた。
「終わったか」
彼女は、黙ってうなずいた。
「そうか」
カルテを抱えた看護師が、通りすぎた。どこからか、人の話し声が聞こえた。
どこかでなにかが終わって、始まることを、耳に入る全ての音が、知っているようだった。意識しなかった日常生活の音が、やたらと近く感じられた。
山田が、気づかわしげに片手をあげて、肩を叩こうとした。しかし、すぐにおろしてしまった。
代わりに「行くぞ」と、ぶっきらぼうに声をかけて、歩きはじめた。
だが、足が動かなかった。釘で打ちつけたように、すべてが固まっていた。息をついて、なんとか顔をあげる。
山田は、数歩進んだ先で待っていた。無感情にみえる顔に、少しだけ心配の色が見えた。それでも、彼はなにも言わなかった。
ナオコは、深呼吸をした。やけに空気がおいしく感じられた。消毒液の匂い、光の白さ、すべてが眩しくて暖かかった。目元が熱い。それでも、彼を真正面から見ることができた。
「行きます」
カラ元気を出して、笑う。足早に追いついて、歩きだす。
彼は、目を細めた。冬の光がまぶしかったのだろう。