言葉少ない恋
日曜日の朝、飯田が目を覚ました。日が昇って、だいぶ経ったあとだった。
ナオコは、ベッド脇の椅子に腰かけ、眠る横顔を眺めていた。なので、その目がゆっくり開く瞬間を、よく見ていた。
HRAが提供した個室は、穏やかな静けさに満ちていた。窓辺から清々しい冬の日差しがさすと、シーツが清廉に光った。
「ナオコちゃん」
彼は、開口一番に恋人の名をよんだ。焦点のあわない目で左右をみわたす。
「達也さん」と、身を乗りだす。
ようやく覚醒した彼は「よかった」と安堵の笑みをうかべた。
「無事だったんだ」
「はい」
ナオコは、しきりにうなずく。左手が差し出されたので、ごく自然に握った。そこに体温が宿っていることが、神聖だった。彼が生きているという実感をようやく得て、強く握りしめる。
よかった、と彼女は独りごちた。ほんとうに、よかったです。
飯田は、大きく息をついた。傷が痛んだのか、顔をしかめて、
「まさか、だなあ」と、つぶやく。
「まさか?」
「いや、自分がこんなことになる日がくるとは、思ってもいなかったから」
「……ごめんなさい、わたしのせいで」
謝って済む問題ではない、と思いつつも、口から謝罪がこぼれでる。
肩を落とす彼女に、
「いや、そういう意味じゃなくて」と、訂正が入る。
「冷静にさ、今、思うと、マンガの中みたいだったよね。アレ」
声がうわずっていた。
「のんきなことを言うようだけど……すごかった。これまでの人生で、一番すごいものを見たよ」
ナオコは、ぽかんとした。そして、そう言いきってしまう胆力に、思わず笑った。
「怖くなかったの?」
「もちろん怖かったよ! 急に人が居なくなるし、ナオコちゃんは事情を分かっているみたいだったけど、説明してくれないし。あげくに、なんだ? スフィンクスみたいな化物が襲ってくるし……本当に夢でも見ているんじゃないかと思ったよ」
彼の頬は、興奮で赤くなっていた。
「ねえ、ナオコちゃん。説明してくれるんでしょ?」
期待を向けられて、ナオコはうなずいた。
「信じにくい話だと思うんだけど……」
「ここまできて、信じないなんてこと、あると思う?」
茶目っ気をだす彼に笑いかける。これまでの経緯と、自分の仕事について話しはじめる。飯田は、のめりこむようにして、話を聞いていた。
30分ほど話しただろうか。ある程度まで話し終えると、飯田はあごに手をあてて「そうか」と、つぶやいた。
「いや、なんというか、本当にマンガの中の話みたいだね」
ナオコは恥ずかし気に肩をすぼめた。
「たしかにね」
「でも、これでハッキリしたな。君の怪我の多さの理由」
飯田は、にやりとした。
「気になっていたんだよね。もし警備会社の警備員だったとしても、ケガが多すぎると思ってたから。化物退治をしていたなら、納得がいく」
「……今度は、達也さんをケガさせてしまって」と、眉尻をさげる。
「本当にごめんなさい、わたしが弱いばっかりに」
「ううん、ナオコちゃん、弱くなんてなかったよ」
食い気味に、口がはさまれる。
「かっこよかった。月並みだけどさ、ヒーローっぽかったよ。普段そんなふうには見えないのに、ああやって戦うところを見ると、なんというか」
そこで、言葉が切れる。
「なんというか?」
飯田が、ケガをしていない方の腕で、手招きをした。椅子から立ちあがり、ベッドに近づく。素早く頬に口づけられた。
「惚れなおした」と言って、くすくす笑う。
ナオコは、咳払いをした。
「達也さんって、たまにそういうことしますよね……あれですか、やっぱりバンドマンだから」
むっとして見せる。照れ隠しだった。
「バンドマンは関係ないでしょ」と、心外そうに言う。
「関係ありますよ。意外とちゃらいんですから」
そっぽを向いたのは、甘えだった。きっと「そんなことないよ」と、笑って否定するだろうと思った。
しかし、なにも言いかえしてこない。はてと思って、後目で確認する。
飯田は、口元にわずかな微笑をうかべていた。
「そうだね。人には、いろんな面があるから」
満足気なためいきが、病室に落ちた。ナオコは、おだやかな横顔をじっと見つめた。
「ナオコちゃん」
「はい?」
車のエンジン音と、小さな話し声が聞こえた。ナオコは、窓の外に目をむけた。青空が延々とつづいている。いい天気だった。平穏が形になったような、日曜日の午後だった。
「別れよっか」
視線をずらす。ずっと苦手に思っていた、誠実すぎる目と出会った。