Prayer
夜空に、群青色の雲が重くたちこめている。
渋谷区の片隅にかまえられた病院は、怪物がうずくまっているような佇まいだ。巨大な棟が三つ、庭を囲んでコの字型に建つ。玄関口は広く、駐車用のスペースが広くとられているが、今は一台の車もない。
訪れる者に、病院を牢獄のように思わせるのは、そびえる塀の高さが原因だ。コンクリートの壁は、死体よりも冷たい。
塀に、黒いスーツを着た青年が、寄りかかっていた。うすい唇から、灰色の煙が細くただよう。暗く塗りこめられた絵画の世界で、煙だけが、ふわふわと生きている。
青年は、思いつめた顔をしている。タバコの味は、ほとんどしない。
塀に、長い影がのびた。玄関から出てきた人物が、青年に歩みよる。
「山田くん、全館禁煙だよ」軽やかな声が、話しかける。
「ま、ぼくはいいけどね。ナオコくんが見たら、怒るよ」
「……どうだった」視線を落としながら、たずねる。
「ナオコくんのほうは、大丈夫。背中と左腕の打ち身が激しいけど、一週間もすれば回復するって。問題は、彼のほうかな」
「後遺症が残りそうなのか」
「そういう意味じゃないよ」
マルコ・ジェンキンスは、意味ありげにほほえんだ。
「ばっちり見られたんだ。記憶処理はまぬがれない」
山田は、太い息をはいた。
「そうか」
「ナオコくんは、かわいそうだけど。でも、話したら、すぐに納得してくれたよ」
山田は、すらすら話す青年に、責めるような目をむけた。が、また伏せた。
「そうか」と、もう一度言い、それきり黙る。
マルコは、空を仰ぎ見た。憂鬱な夜空だ。
しかし、満天の星を目撃したように、その目元は笑む。
「ラッキーだったね。ちょうどよく、悪い虫を始末できた」
山田の顔色が、うしなわれた。
「なにを言っているんだ」
「なにをって」と、マルコは、無邪気につづける。
「そうだろう? あんな男が、彼女にふさわしいとは、ぼくは思わないな。山田くんも、そう思っていただろう?」
すらすらと話す青年に、山田は絶句している。
「すっごく普通のサラリーマンじゃない。だから、今回みたいなことがあっても、彼女を守るどころか守ってもらう立場だ」
「あたり前だ、彼は、一般人だぞ」
「でも、もしあそこに自分がいたら、彼女を守ってあげられたって思っただろ?」
にやけ顔で、核心が突きつけられる。
「彼女をかばってやるのは、自分の役割なのに。なんで他の男なんかに、彼女を任しておいたんだろう。そう思っただろう?」
「……バカなことを言うな」
短く言い放ち、縮んでしまったタバコを携帯灰皿に挟みこむ。灰がこぼれて、革靴を汚した。
「そういう態度なんだ」
マルコは、おかしそうに言った。
「まあ、かまわないけれど」
彼は、今度こそ、なにも答えなかった。
病院に戻ろうとする後ろ姿に、不愉快なほど楽天的な声がかかる。
「今日、秀介から電話があったよ」
山田が、ふりかえる。
マルコは、スーツのポケットに両手をつっこみ、不遜な面持ちで立っている。金色の髪の毛は、白くすんで見えた。
「完成品が見たいそうだ。彼は、次世代の革命に期待しているよ。ブージャムとして、君はどう思う?」
山田は、しばらく、自分の影に立つマルコを見ていた。そして、ふいっと、
「彼がどうしようが、俺には関係ない」と、つげる。
「また、そういう態度をとる」
呆れた顔をする。
「自分の家族のことじゃない。いいの? 言っておくけど、あれがまともに使用されることになれば、ブージャムの立場はなくなるよ。そうすれば、君も、君の兄弟たちもお払い箱だ」
「そうなった方がいいだろう」
「冷たいなあ」
マルコは苦笑して「家族のことは大切にしなよ」と言った。
それから、わざとらしく「ああ」と、うわずった声をあげた。
「大切にしているか。これ以上ないってほど」
山田が、鋭い視線をむけた。
「お兄ちゃんって呼ばれたいわけでもないだろう? なら、どうしてその立場に固執するのかな」
「……」
「それとも」と、さわやかにつづける。
「二十年前にもどりたいの?」
「マルコ!」
呼び名から、敬称がなくなる。マルコは、口元をゆがませた。
「やだなぁ。もう、ぼく、子どもじゃないんだけど。まるで、弟を呼びつけるみたい」
「余計な口をたたくな」
その言葉は、怒りを抑えて、静かだった。
風が吹きはじめて、玄関口に散らばった何枚かの落ち葉をはらった。
「もどりたくないの?」
マルコが、腕をこすりながら質問した。
「ぼくは、自分の家にもどりたいけれど」
「……君は混乱しているんだ」
冷静に、さとすように話す。
「急にさまざまなことを知って驚くのは分かる。だが、それでやるべきことが変わるわけではない。HRAの指針は、間違っていない」
「仇敵にたいして、よくそんなことが言えるねえ」
マルコは、びっくりして見せた。
「あのね、ぼくは秀介の考えは、正しいと思うよ。この世界はいつだって正しい。あちらの世界は偽物でしかない」
山田の目が、怯えたように、かすかに見開く。
「でもね、偽物にだって存在意義があるだろう? 鏡の中が無くなってしまったら、ぼくたちは、どうやって自分の顔を見ればいいんだ?」
二人の青年は、示しあったかのように、同時に沈黙した。
観察眼のある人間であれば、彼らが、よく似通っていると気づくだろう。背格好はもちろん、顔の整った配置も、声も、まるで鏡面をはさんだように相対している。
「ま、山田くんは、あの子の顔さえ見られれば文句がないのか。笑っちゃうね」
彼は、くしゃくしゃの笑顔をうかべた。
「ねえ、お兄ちゃん。ぼくは、もう我慢しないよ」
子供じみた言葉は、雲りなき決意に満ちていた。
「マルコ、俺は」
「だから、君も選べ」
彼の兄弟は、冷酷な目つきをしていた。
「ここか、向こうか、選ぶんだ」
マルコが、きびすを返す。
山田は、その場に立ちつくした。こぶしが強く握りしめられたが、掴むもののない手のひらには、爪が食いこむだけだ。
去っていく背中を見送ってから、病院の中へ戻る。
待合室は暗く、無人の受付に、蛍光灯の光がともっている。階段をあがり、最上階に着く。静かすぎる廊下に、歩む音だけが響く。一番奥まった部屋の戸に手をかけ、そっと引く。
部屋は暗かった。しかし、カーテンの隙間から外光がもれている。ベッドに横たわる女性のひたいが、光にさらされていた。
ベッド脇の丸椅子に腰かけ、眠る女性をながめる。顔色は蒼白だが、呼吸はおだやかだった。優しい夢を見ているようだった。
彼は、幼い頬と、ときおり大人びる眼差しを、いま、見たかった。
細い指先が、枕上の頭部に触れた。壊れ物を扱うように、丁寧に髪をすく。
かすれた声が、彼女の名前をよんだ。
彼は息をのんで、行いを悔やむように、手をひっこめた。行き場のなくなった指先が、シーツを握る。
目を閉じ、祈るように、こうべを垂れる。