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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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悪夢を連れてきた

 十九時をまわる前に、店を出た。体全身がぽかぽかしていた。

 混雑した交差点で、信号をみあげる。白い息が、煙のようにたなびく。


「クリスマスライブをやる予定でね」と、飯田が話した。

「せっかくだから、お客さんにプレゼントをしようって言ったんだ。そしたらみんな、バンドマンがそんな気を回さなくていい。これだから社会人はって言うんだ。ひどくない?」


「たしかに」と、ナオコは笑った。

「でも、ロッカーっぽくはないですね。クリスマスプレゼントって」


「バッドボーイっぽくしたほうが、ナオコちゃんは好みなわけ?」と、唇をとがらせる。


「そういうわけではないですけど」


 くすくす笑う。悪ぶる飯田なんて、まったく想像がつかない。


「ふぅん、じゃあ、聖歌隊ぶってキャロルでも歌おうかなあ。そのほうが良い?」


 おどけた言葉に、きょとんとする。


「きゃろる?」


「うん、キャロル」


「キャロルって……えーと」


「クリスマス・キャロルね。あ、でも、意外といいかもしれないな……QUEENも、オペラを曲に取り入れていたわけだし」


 ナオコは、意表をつかれた気持ちだった。キャロルと聞いて、HRAを思いだしたのだ。しかし、キャロルといえば、元来その意味合いだった。

 クリスマス・キャロル。聖歌を指すのだ。


 飯田が腕時計をみた。


「たぶん、二十一時まえには家の最寄りに着くから、そしたら近所のスーパーでお酒買おうね」


「あ、はい……」


 ナオコは、うなずいた。しかし、その直後「え?」と素っ頓狂な声をあげた。


「どうしたの?」


「いえ……」


 彼女は、まわりに目をくばった。気のせいだったのだろうか。

 二の腕から背筋にかけて、慣れ親しんだ寒気がした。〈鏡面〉に入るとき、あるいは〈鏡面〉の存在に触れたときの震えだった。


 交差点は、車通りが多かった。

 ワゴン車が二台、軽が三台、トラックが一台、タクシーが一台、バイクが横を通りすぎて、短いクラクションが鳴る……信号の下に待ちぼうけている人々が、フィギュアのように並んでいる。

 黒いスーツを着た二人組がいた。見慣れた顔だ。同僚の〈芋虫〉である。


 ナオコは息をのんだ。


 背筋を冷気が這う。彼から離れようと、後ろにしりぞく。しかし飯田は、その行動をふらつきだと考えたのか「大丈夫?」と、ナオコの腕をつかんだ。


 映写機が壊れたように、視界がちらつく。次の瞬間、周囲から人が消えた。

 ナオコは、突如ひらけた交差点に、目を走らせた。そして、隣に立っている青年をみて、血の気をうしなった。


「達也さん」


「……なんだこれ」


 飯田は、あぜんとしていた。慌てて周囲をみわたす。


「え、ちょ、待って。さっきまで、人たくさんいたよね?」と、独り言めいた言葉をはいてから、ナオコの肩をかかえた。

「ナオコちゃん、近くにいてね。なにがあったか分からないけれど……」


〈鏡面〉は、基本的に〈芋虫〉しか入れない。一般人の侵入を防ぐために、精神分離機に個々の発するエネルギー周波が登録してあり、適合する人物のみが〈鏡面〉に入れる。


 しかし、ナオコは、一般人が〈鏡面〉に侵入したケースを、ひとつだけ知っていた。彼女自身が、当事者だった。四年前、線路に落下したナオコを、山田が助けた。そのおりに、ただの就活生だった彼女は〈鏡面〉に侵入してしまった。

 肉体の接触が契機になる。さらに、精神エネルギーの同調も必須だ。そうでなければ、偶然通りがかった他者に触れてしまう恐れがある。同調は、親しい間柄でのみ、まれに見られる現象だ。初対面のナオコと山田に、精神エネルギーの同調が見られるはずがなかった。そのため、あの事件では、線路から落ちかけたショックが、二人のエネルギー値を乱した、と予測が立てられた。


 そこまで考えて、ナオコの指先が、あっというまに冷えた。

 自分のせいだ。凍りついた思考が、脳みそを斜めに通りぬけていく。

 

 仰ぎみる恋人は、怯えを表情の裏にかくして、

「だいじょうぶだよ」と、言った。異常事態が怖くないはずがない。それなのに、自分を安心させようと苦心しているのだ。

 唇をぎゅっと噛んで、飯田の腕をつかむ。来た道を走りだす。


「ナオコちゃん!?」

 

 全力疾走して、交差点から50メートルほど離れる。雑居ビルの影に、飯田を押しこむ。

 豪快な破壊音が聞こえた。ふりかえると、交差点で〈虚像〉と〈芋虫〉が交戦している。巨大なタワシのような亀が、石臼のごとき足を進める。

 しかし〈芋虫〉のふたりは、どちらもベテランだ。両生類に遅れをとる人たちではない。

 口をぽかんと開けている飯田を、ビルの物陰にさらに押しこむ。


「……夢か?」


 なにも答えられなかった。ただ一刻も早く、戦闘が終わりますように、と祈る。

 コンクリートの粒が、ぱらり、と飯田の革靴に落ちた。

 二人は、とっさに頭上を見あげた。天井は狭く、蜘蛛の巣のようなひび割れが走っている。そこから、ぱらり、ぱらり、と灰色の破片が落ちる。


 空気の上澄みをなめるような、甲高い音が耳朶をたたく。


 ナオコは青ざめ、飯田を連れてビルから飛びだした。

 すぐ後ろで、轟音がした。息をのむ。ビルの脇、先程まで彼らが立っていた場所に、穴が空いていた。穴から、白い物体がすがたを現した。

 それは、直径1メートルの、大きな白い楕円だった。船底にこびりつくフジツボのように、灰色の目がびっしりとついている。穴の縁に、獣の前脚が掛けられた。やがて現れた、玄関を満たすほどの白い肉体は、獅子のものに似ていた。


 異常種だった。しかも、人間に近しい状態まで成長してしまっている。絶望が全身をおそう。ナオコには、到底太刀打ちできない。

 そのとき、震える腕が目の前を横ぎった。青年の横顔は、恐怖にひきつっていた。それでも、自分を守ろうとしている。

〈虚像〉は、目が多すぎるのか、首をぐらぐらさせていた。ナオコたちを、まだ識別できていないようだ。


 深呼吸をする。震える足を叱咤して、精神を集中させる。すると、慣れたラバー素材のグリップが、てのひらに吸いついた。


「達也さん」


「……ナオコちゃん?」


 彼の腕を押しのけ、前に出る。〈虚像〉をにらむ激しい目つきに、覚悟が宿っていた。


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