悪い子
「想像以上によかったね!」
ナオコは満面の笑みをうかべた。
「やっぱり中島作品は映画館で観ないとね……エンターテイメントはかくあるべき、というか」
うきうきと赤いカーペットを歩く彼女の背後で、飯田がうなずいた。心なしか顔が青い。
上映室から廊下へ出て、紙コップを係員に渡す。
「そうだね。はは、いや、久しぶりにホラーなんて観たから、寒くなっちゃったよ」
「あ、ごめんなさい」ナオコは一人で浮かれていたことに気付いた。
「やっぱり無理だった?」
「そう言われて、無理だったと答えるやつも少ない」飯田は笑った。
「おもしろかったよ。でも、怖かった」
「ホラーは怖いのが一番だよ」
「それは言えている」
コミカルに人差し指を立てる飯田だった。ナオコはくすくす笑いながら、彼の横にならんだ。
映画館を出ると、109ビルの横を太陽が沈んでいく途中だった。つん、と澄ました冬の空気だ。灰色や黒の上着が、坂を行き来している。
「ごはんにしようか?」
飯田が、両手をこすりあわせながら提案した。
「なにが食べたい気分?」と、笑いかける。
「温かいものがいい、かな」
「じゃあしゃぶしゃぶとか。あったまるよ」
ナオコは賛成した。二人は、近くの店舗を調べ、歩きはじめた。
十二月に入って、渋谷は一気にクリスマスムードに染まった。駅前の大型ビジョンや看板が、赤一色だ。聖なる夜にむけて、商戦の準備を進めている。道を歩けば、ノイズで割れたラストクリスマスが聞こえる。
ふいに手がつかまれ、彼の上着のポケットにおさまった。ぎゅっと握られる。甘い笑顔がのぞきこんで、
「クリスマス、ナオコちゃんは、仕事大丈夫そう?」と、たずねた。
照れ笑いをうかべ、手を握りかえす。
「たぶん大丈夫だよ。シフト、入ってなかったから」
「そっか。よかった。それじゃあ、当日はどこかに予約をとろう」
飯田が顔をほころばせる。
「その前に、休みがとれたら、どっか遊びに行こうか」
「あ、それならわたし、赤レンガ倉庫に行きたいかな。一回、行ってみたかったの」
「クリスマス・マーケットかあ。いいね。洒落てる」
「洒落てちゃダメ?」小首をかしげると、
「いいや、とことん洒落たことをしよう」
と、喉の奥で笑い、つながる手に力をこめた。それを受けて、意図的に手を握りかえす。
いとおしい、とナオコは感じた。心の底から、彼に好意をもった。
だが、それだけだった。
恋人に、そっと体を寄せる。道が混んでいたので、飯田はナオコが押されたのだと勘違いしたようだった。つながれた手を離し、代わりに、肩をそっと支えてくれた。
「最近は仕事、どう? うまくいってる?」
ふい、と話題がふられた。
「組む人が変わったんだよね? その人とはどう?」
「うまくいっているよ。前よりも、ぜんぜん」と、明るくこたえる。
「ふうん、そっか」
彼はすこしためらってから、
「あの、例の人とは、どうかな」と、たずねた。
ナオコは、かすかに顔をこわばらせた。そして、間を空けないように、しかし、空けなさすぎもしないように気をつけた。すばやく笑顔を作る。
「お節介もされていないし、なんなら話もしないかな。最近、あまり話さないようにしているから」
「どうして?」
飯田は、とっさに疑うような声を出した。そして、恥じるように眉尻を下げた。
「ごめん、でも、気になって」
ナオコは首を横にふって「だいじょうぶ」と、ほほえんだ。
「ただ、話す理由がなくなっちゃっただけだよ」
彼女の言葉に、うそがないことを感じたのか、飯田はそれ以上追求してこなかった。
リリーから話を聞いて、5日がたっていた。そのあいだ、ナオコは意識的に山田を避けていた。というよりも、特別に彼を追うことを止めた。
理由は二つある。
一つ目は、彼に吸血をさせる必要がなくなったからだ。マルコが便宜をはかってくれたおかげで、山田は以前のように、無理な精神分離機の使用をしなくなった。
二つ目は、山田に思いを寄せるべきではない、と痛感したからである。リリーの件を経て、その気持ちはいっそう増すばかりだった。
前から、そう思ってはいた。自分は甘ちゃんで、安穏と暮らしてきた人間だ。一方、山田は壮絶な過去をもち、苦しんできた人間である。
いくら苦しみを共有してあげたくとも、自分にそれはできない。傷を癒すことも、寄り添うこともできないのだ。
彼に想いを寄せる資格が、自分にはあるだろうか?
慕う気持ちは、抑えがきかない。気がつくと、視線は背中を追い、表情のひとつひとつを目に焼きつけようとしている。
だからこそ、見ないふりをしている。汚い気持ちであると思うがこそ、彼に向けられなかった。
山田に焦がれるほど、ナオコは飯田に申し訳なく思った。こんな自分を好いてくれる飯田に、できるかぎり報いたかった。
罪滅ぼしだった。だから、彼女は今日、覚悟を決めてきた。
「明日、休みなんだ」
ナオコは、なにげなく話しかけた。
商業ビルのエスカレーターに乗っていた。ふりかえると、飯田の顔が固まっている。
「休み」と、彼女は口で言葉を転がした。
「達也さんは、明日はなにを?」
「……日曜日は、一応、みんな休みなんだよ。ナオコちゃん」
落ちつきを自分に課すように、つぶやく。
「そうか、休みなんだ」
「うん、休みなの」
エスカレーターから一歩踏みだす。右手に、しゃぶしゃぶ屋のメニューが飾ってある。店内に入ると、まだ時間が早いにも関わらず、ざわついていた。窓側のテーブル席に通される。
せっかくなので、一番高い食べ放題コースを選んだ。
お冷を口にふくみ、飯田が口をひらいた。
「ナオコちゃん、やりたかったことがあるんだけど」
「うん?」
「ゲーム好き?」
彼女は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「ゲームですか」
飯田はおかしそうに、
「スーパーでお酒買って、それで、ぼくの家でゲームしながら晩酌しようよ。バイオハザード6があるから……ホラーが好きだろ?」と、つづけた。
それで、彼の意図がわかった。ナオコは破顔して、
「わたし不器用だから、うまくできないかも」と、言った。
「そのときは横で見ててよ。これでも、結構うまいから」
「映画は怖がっていたのに?」
「ゲームは大丈夫なんだよなあ、これが」
「じゃあ、それで」
鍋が煮立ってきて、出汁のよい香りがした。
ナオコは、優しい気持ちで、恋人の顔をながめた。湯気をはらいながら、野菜を投入している。ふと顔をあげて「ほらほら、食べて」と、せかす。「たべるよ」と、ナオコも箸をとった。なにもかもが、満ち足りていた。これでよかった、と心底思った。