青い十字架
「それってさ、マルコさんは……」
ナオコは、おそるおそる口をひらいた。
「あの男も知っています。いえ、つい最近気づいたみたいですね」
マルコを憎たらしく思うのか、リリーは嫌悪感をあらわに、
「それまでは、なにも知らずに、のうのうと生きていたんですよ」と、つづけた。
ナオコの心には、こちらをにらむ少年の顔が、悲し気に、宙ぶらりんになっていた。
どうにも信じられなかったが、冗談でそんなことをいうとも思えない。
「どうやって彼がブージャムになったのか、そもそも、どうして群れから外れたのか。そういうことを、彼は話しません。でも、協力はしてくれます」
「協力っていうのは」
「わたくしたちが、国へ帰る協力です」
リリーが、顔をそらした。バイクが走る音が聞こえた。いっそう夜の静けさが際立って、それ以上、問いただす気になれなかった。
しばらく、ふたりは黙っていた。
ナオコは山田の顔の造形、ひとつひとつを思いうかべた。ただ、それに付随して、仏頂面や困り顔や、ほんの少し唇にうかぶ微笑が記憶から飛びでる。胸が、愛しさか苦しさか分からないもので、いっぱいになった。
「……ねえ、ナオコさん」
リリーが沈黙をやぶった。
「わたくしは、これまでずっと、自分がシホのソウルメイトだと思っていました」
「ソウルメイト?」
「ええ、魂の片割れです」
魂。強い言葉だった。ナオコは、すこし苦しくなった。
「わたくしの武器が、シホと一緒なのは知っていますよね」
「うん」
「これは、HRAの研究所で使われている、一山いくらの物です」
リリーは、胸ポケットから、ペーパーナイフを取りだした。柄はプラスチックで、青色だ。刃はとがっているが、特別鋭いわけでもない。その丸みを帯びた先端が、かえって生々しく攻撃的だった。
「シホは、幼いころ、〈芋虫〉の仕事に耐えかねて、HRAから脱出しようと試みたそうです。でも、いくらブージャムといえども、子どもです。脱出は失敗し、アルフレッドに、検体番号1番のもとに連れていかれました」
検体番号1、つまりアリスのことだ。ナオコは、じっと話を聞いていた。
「そこには、誕生したばかりの赤ん坊がいました。検体番号14番、わたくしです。アルフレッドは、シホにこれを渡して、言ったそうです」
ペーパーナイフが、ふたりの眼前で、左右に振れた。
「もし、この赤ん坊を殺すことができたなら……そのときは、解放してやろう、と」
残酷な仕打ちだった。息をのむナオコの横で、リリーは、わずかに目をほそめた。
「シホは、殺せませんでした。でも、心に傷がつきました。赤ん坊のわたくしの心にも、です」
精神分離機は、その人物が『一番攻撃的である』とみなすものを、出現させる。
「このナイフは、わたくしたちの傷です」
祈るように、リリーは話す。
「シホは、人間じゃなくなりました。顔を変えました。冷たくなりました。沈黙することに慣れました。わたくし、あの人が人間じゃなくなって良かった、と思いました。だれにでも冷たい彼なら、わたくしが一番近しい場所にいられます……おなじ傷を持っているのですから」
おもちゃのようなナイフは、暗い室内で、神聖な十字架のように揺れていた。
ナオコは、触れがたい神聖さを感じた。彼らがもつ傷に、自分はなんら関わることができない。
「でも、あなたは違いますね」
リリーは、憂いをこめて、つぶやいた。
「傷なんて、ない。こんなに平和な国で、のんびりと生きて、なんとなく生活して……それで、シホの隣にいるんですね」
「……もう隣にはいないけど」
「ううん、いますよ。シホは、どうでもいい人のために、あんな風に怒りません。やっぱり、わたくしの見立ては正しかったんです」
ナオコは、口をとじていた。
「相棒だから、ですかね。わかる気がします。たぶん、シホは……あなたがこんなにもバカだから、大切なんでしょうね」
彼女は、喪失感にあふれていた。なんて綺麗な女の子なのだろう、とナオコはひそかに思った。手に入らないものに焦がれる少女は、自分など足元にも及ばず、美しかった。
「うらやましい」
ナオコは、少しだけ笑んだ。
「わたしは、リリーがうらやましいよ」
「そんなわけないでしょう」
リリーは、キッとにらんだ。
「だって、わたしは山田さんのことを、全然理解できないもの」
おなじ傷という言葉が、心の奥底で、ひりひりと痛んでいた。焼きごてを押しつけられたようだった。
「わたしこそ、のうのうと生きてきた。山田さんやリリーみたいに、辛い思いもせず、生ぬるい生活を送ってきたの……だから、痛みが分からないよ。傷がどんなに深いか、分かってあげたくても、そんなのダメでしょう」
深呼吸をする。
「ねえ、リリー。わたしは遠くから見ていることしかできない」
リリーは、まじまじとナオコをみて、
「贅沢な悩みですね」
と、言った。
「そうだよ。だから、リリーがうらやましい。できることなら、わたしだって、そのナイフが欲しいくらいなのに」
リリーは目をまんまるくした。
「あなた」と、つぶやき、それから先は言わなかった。女同士だからかもしれない。ただ、彼女の背後にあった怒りや、やるせなさが、すうっと消えた。
「傷なんてないほうがいいって、シホなら言いますよ」
「そうかも」と、ほほえむ。
それでも、リリーと山田の切れないつながりが、眩しく、遠く思えた。
「ナオコさんは、やっぱりいい人なんですね」
彼女は、つぶやいた。
「なにも考えてなくて、頭がからっぽで、にわとりみたい……」
「ぜんぜんいい人そうに聞こえないね」
リリーが、ふいに立ち上がった。そして、頭をさげた。
「ごめんなさい」
真摯な謝罪に、ナオコはぎょっとした。しかし、顔をあげたリリーは、謝罪したばかりとは思えないほど、不満そうだった。
「いちおう、謝っておきます。べつにわたくしが悪かったとは思っていませんが、殺意を向けるのは、早計でした」
「あ、うん」
「シホとマルコ・ジェンキンスの件は、内密にしてください。それと」
彼女は言いよどんだ。
「明日、シホに謝りにいきます。だから、その」
「一緒に行くよ」と、言葉をつぐ。
「わたしのシフトが終わったら、すぐにでも行こう?」
リリーの唇が、真一文字になった。ゆっくりとうなずき、口がもごもごと動いた。
彼女がなんと発言したか分かって、ナオコは苦笑した。謝罪よりも、お礼の言葉にまごつくなんて、困った子だった。