彼の正義
ナオコは、ぽかんとした。
「え、〈鏡の国〉って入れるものなの?」
「もちろんです」彼女は、ちょっとためらった。
「ただ、たぶん、わたくしたち、スナークとブージャムだけだと思います」
「どうして? 人間は、無理なの?」
「無理かどうかは知りません。でも、入った人の話を聞いたことがありませんから」
「そうなんだ……」ナオコは感嘆した。「知らなかった」
「わたくしにも、詳しいことはわかりませんが」と、リリーは話をもどす。
「アリスの遺伝子は〈鏡の国〉に特別に適合するのだそうです。そして、彼女の子どもであるスナークが〈鏡の国〉を通過することは、とどのつまり、その遺伝子に刺激を与え、進化を促すためなんです」
「進化?」
「まず、半殺しの状態になるんです」
物騒な言葉だった。ナオコは、表情を硬くして「はんごろし」と、くりかえした。
「〈鏡の国〉には、ものが復元する効果があるんだそうです。その効果を利用するために、肉体を極限まで傷つけます」
「つまり、ええと、死にかけた状態で入らないとダメってこと?」
「進化というものは、生存のために行われる過程ですから」
リリーは、当然のように言った。
「わたくしは、弟と入りました。お互いに腕と足の骨を一本ずつ折って、それから肺にナイフを刺しました。それで〈鏡面〉に入りました」
「弟、いたんだ」と、ナオコはすこし驚いた。
「ええ。検体番号十五です」
返ってきた言葉は、無感動だった。ナオコは、なにも言えなかった。
リリーは、当時を思い出しているのか、じっと宙をにらんでいる。
「〈鏡の国〉の中って、こちらとそんなに変わらないんです。気がつくと、ダウンタウンの路地裏に、わたくしは居ました。横に、弟の死体がありました」
彼女は、視線を斜め下にずらした。そこに、無残に横たわる少年が、見えているようだった。
「わたくしは変わり、弟は変われなかったんです」
「変われないことも、あるんだ」
「研究が進めば、より確かな確率で進化できるでしょうね。でも、そのためには、もっとスナークが必要です。実験のための、スナークが」
「……それは」
「ブージャムになることを拒めば、アリスと同じ道をたどります。わたくしの姉の一人は、いま、産むことに専念しています」
ナオコは、口元をおさえた。リリーは、ぼんやりしている。
「本社のスナークとブージャムは……わたくしの兄弟たちは〈鏡の国〉に、みんなで行きたいと思っています」
もはや、ナオコには、その理由が痛いほどに理解できた。そして、昨日の山田の発言を思いだした。
自分たちは、人並みに扱われるべきではない。そう言っていた。やりきれない苦しみが、彼女の胸にせまった。
「あそこが、わたくしたちの帰る場所なんです。でも、シホは……」
リリーは、ためらいがちに続けた。
「シホは、HRAの味方です。なにがあろうと」
「どうして?」
「大切なものがあるんです、HRAに。だから、わたくしたちと反目します」
ナオコは、あごに手を当てた。
「むしろ、山田さんは、ここを憎んでいるんじゃないかな」
「そうかもしれません。いえ、そうでしょうね。でも」
リリーは、言いよどんだ。
「シホは、自分のことなんて、どうでもいいと思っている人ですから。大切な人が、それを大切にしているならば、彼はそれを必死に守るんですよ」
山田は、ときどき、驚くほど他己的だ。傍若無人な態度とうらはらに、生き方はどこか殉教的である。それが、ナオコには悲しかった。遠く光る星のように、非人間的で、きれいな生き方だった。
「ナオコさん、兄弟っていますか?」
リリーが、思いつめた様子で口をひらいた。
「いや……いないけど」
みなしごのため、もしかしたら居るかもしれない。だが、今となっては分からない話だ。
「そうですか」
リリーはひとつ、うなずいて、ジャケットの内ポケットをあさった。ファンシーな柄の手帳が出てきて、その一番うしろのページに、ちいさな紙がはさまっていた。
「これ」と、指さした。
「シホです」
「……へ?」
ナオコは、首をかしげた。
「いや、これは」
「シホです。彼は、当時十五歳。わたくしは、七歳でした。わたくし、このときは本当に驚きましたよ……」
リリーは、かわいた笑い声をあげた。
呆然と、その紙を手に取った。
そこには、少年が写っていた。四方がギザギザに切り取られている。
「顔すらも変えるほど愛しい兄弟がいたら、その国を諦めるはずがありません。彼の眼中に、わたくしたち肉親はなく……ただ、たった一人の兄弟だけが、彼の大切なものです」
その少年は、美しい金髪だった。
あどけなく整った顔立ちと不釣り合いに、頬はこけ、唇はぎゅっと結ばれている。
なにかを憎むように、攻撃的な眼は、夜空のような青だった。
彼は、どこからどう見ても、マルコ・ジェンキンスだった。
「……待って、意味がわからない」
ナオコは、かぶりをふった。手が細かく震えて、写真を取り落としそうになる。
深呼吸をして、今一度、写真を凝視する。だが、やはり、その少年は、マルコに瓜二つだった。
「マルコ・ジェンキンスは、なんらかの事故によって、群れから外れたブージャムです」
リリーは、断定的に言った。
「詳しいことは知りません。でも、顔を見てピンときました。シホが顔を変えたのは、マルコ・ジェンキンスが自分の双子であると、隠そうとしたためです」
思いだすのは、声だった。
山田は低く、マルコは明るく話す。そういえば、一度だけ、彼らの声を聞き間違えたことがあった。 上野公園で戦闘をした日、あの優しい声を、山田のものと思って悲しかった。
彼らのすがたを、重ねあわせる。背格好、雰囲気、たしかに似ていると思うことは、たびたびあった。