犠牲
リリーに警戒して、その日、ナオコはケビンと一緒の部屋で休むことになった。彼女は、異性と一緒に休むことに、多少の抵抗があったが、彼が布団に寝っ転がって、すぐに象のようなイビキをかきはじめたのを見て、どうでもよくなった。一応気をつかってくれたのか、ベッドはあけ渡してくれた。
なかなか寝付けなかった。
携帯の画面を光らせてみると、こうこうと浮かぶ『1:50』の数字の下に、知らぬ間に不在着信が入っていた。
普段なら怪しがって消去するのだが、もしかするとリリーではないか、と思いつく。体を起こし、電話をかけなおす。
十回、コールが鳴った。なにも聞こえなくなった。
「もしもし」
「……ほんとに警戒心がないんですね」
リリーの声だった。
ナオコは、驚きよりも先に安心がまさって、やさしい声で、
「リリー? だいじょうぶ?」と、声をかけた。
「大丈夫って、なにがです」
たしかに、なぜ「大丈夫?」なんて、聞いてしまったのだろうか。
ナオコはすこし照れながら、
「どこにいるのかなって思って」と、つづけた。
電話口は、無音だった。
「あのさ、山田さんも落ち着いたから、戻ってきたほうがいいよ。その、なに、毒うんぬんのことはさ、あとでじっくり聞くけど……」
「ナオコさん」
言葉がさえぎられた。リリーは、ためらいがちに「食堂」と言った。
「食堂に来てください」
「食堂?」
「待ってます」
一方的に電話が切られた。
ナオコは迷った。ここで出ていくのは、愚かだと分かっていた。リリーには、二回の前科がある。そこを、のこのこと顔を出すなんて、命を捨てに行っているようなものだ。
それでも、彼女はケビンを起こさないように、こっそりと部屋を出た。
エレベーターに乗り、九階の宿舎から、七階へと降りた。しんと静まりかえっている。
食堂は紺色に沈んでいた。廊下から差しこむ光によって、いくらか中の見通しはたつ。大きめの長机が6個、整列している。壁際にも椅子が並んでいる。入ってすぐのメニュー表に、明日の日替わり定食はサバの味噌煮であると乱暴に記述されている。
ナオコは、奥の机に、ちょこなんと腰かけている人影をみつけた。リリーだった。
彼女はすぐに来訪者にきづいて、呆気にとられた。
「ほんとに来たんですか」
「馬鹿みたいでしょ」と、笑いかける。
「ええ」
リリーはまじめくさった顔でうなずき、
「殺してほしいんですか」と、張りのない声でたずねた。
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どうしてです」
ナオコはうなった。
どうして、と問われると、やっぱり答えに困る。
「リリー、どこ行っちゃったのかなあって思ってたから」
「……近所の公園にいましたよ」
そっと歩を進め、机のまえに立つ。リリーは、警戒して、身じろぎをした。それは怪我をした動物の怯えのようで、ナオコは、やはりこの女の子を憎めない、と思ってしまった。
なので「怒ってないよ」と、おだやかに言った。
「なにを言ってるんですか」
リリーは、より警戒を強めた。目を三角にして、
「怒ってない? 殺されかけておいて?」と、ぶつぶつ言う。
「うん。あんまり怒る気にならないんだよね」
リリーは口をとざした。困惑が伝わってきた。
ナオコは、勇気をふりしぼって、リリーの横に腰かけた。
すると、それこそ小さなリスがはねるように、彼女の肩がぴょんとはねた。まじまじとナオコを見て、固い声で「死にたいんですか」と、たずねる。
「だから、そういうわけじゃないって」
「……わたくしを絆そうとしているんですね。愚かしい」
彼女は吐き捨てたあと、ナオコをちらりと見て、しゅんと目を落とした。
ナオコは、かける言葉が見つからなかったので、ただ、ぼんやりと宙をみていた。そこには、これまでの山田とリリーのすがたがあった。仲むつまじそうな兄妹は、幻のようにうっすらとしていた。
「シホ、怒ってましたね」
ぽつりと言葉が落ちた。
「きっと、明日にはわたくし、殺されますね」
「いや、そんなことは……」
「いいえ、殺されます。とっても怒ってました。シホは約束を大切にします。あの人は、わたくしがここに来ること自体、とても嫌がっていました」
「……本当に毒、いれるつもりだったの」
そうたずねると、リリーはしばらく沈黙したのちに、
「わかりません」と、こたえた。
彼女の顔に、耐えかねるような辛苦がうかんでいた。
「死ねばいいと思ってはいます。いまも、むかしも」
彼女は言葉をつづけた。
「ナオコさん、アメリカでは有名でした。シホのバディになった女性がいるって、みんな大騒ぎしていました。悔しかったです。あなたなんて、ただの人間なのに」
「ゆ、有名だったんだ」
「シホはそれだけ意味のある存在なんですよ、わたくしたちにとっては」
リリーは、ゆらりと目線をあげた。
「聞いたでしょう?」と、質問する。「わたくしが来た理由」
「なんとなくは」
ナオコは、小首をかしげた。
「スナークたちの地位向上のため、だっけ」
「おおまかにすぎる説明です。実際は」
リリーは、言いよどんでいた。だが、じいっと見つめていると、観念して重い口をひらいた。
「実際のところは、ただわたくしたちは……わたくしたちの国に帰りたいだけです」
ナオコは、きょとんとした。
「え、アメリカに帰りたいってこと?」
彼女は噛みつくように「違います」と言った。
「〈鏡の国〉です。わたくしたち、アリスの子供の居場所はあそこにしかありません」
「……えーと、話がつかめないんだけど」
リリーは、ちょっとの間、沈黙して、説明の順序を考えてから、話をつづけた。
「ナオコさん、わたくしは今年の六月にブージャムになりました。まえに、お話ししましたよね?」
「うん」
「スナークは、ブージャムになることが使命です。そうならなければ、死ぬしかない。わたくしたち、アリスの子どもは〈虚像〉を殺すために生まれた存在ですから、ブージャムになって、強くならないといけないんです」
淡々とした告白だった。そのために、その悲哀が身に迫るようだった。
「ブージャムになれば、名前をもらえます。ちゃんと進化して、やっと、わたくしたちは、人並みに扱ってもらえるんです」
「進化っていうのは」と、ナオコはたずねた。
「ある手順があります」
幼さの残る横顔に、真摯な瞳が光っていた。
「〈鏡の国〉に入って、無事に生きて帰ってくること。それがブージャムになる条件です」