もうネリはいない
トレーニングルームから物音がした。二人は廊下を忍び足ですすんだ。ケビンが先んじて、扉をそっと開く。
電気もついていない大部屋の壁際に、黒い人影がふたつ伸びていた。
壁にちいさな背中をくっつけて、体を縮こませているのは、リリーだ。相対している山田は、目元がみえず、暗がりに口元だけが動いているように見えた。
「約束を忘れたか」地を這うような声だった。
「忘れていません」
小さな影が、ふるふると首をふった。
「わたくし、なにもしていません」
幼子が親に許しを乞うときのように懇願する。
ナオコは、胸がしめつけられた。
「俺が君の滞在を許しているのは、わかるか、リリー。どうでもいいからだ」
短いためいきが聞こえた。
「君が、本社のスナークどもに何を言われて来たか知らんが、協力するつもりは微塵もない。それでもいいなら、ここに居てもかまわない。そういうつもりで許していたんだ」
「わかっています」
「いいや、わかっていない」
ガラスの割れる音がした。ナオコとケビンは、肩をびくつかせた。
山田は、地面に落ちた小瓶を靴の底で踏みつけて、その荒々しい仕草とは対照的に、そっと口をひらいた。
「殺そうとしたんだな」
ナオコは、さあっと血の気がひいた。
「最近は落ち着いていたようだから、油断していた。今日、手を出そうとしたのは、昨日の一件があったからだな。違うか」
リリーは、黙っていた。
「リリー、話すつもりがないならそれでもいい」
彼は、あくまで冷ややかに話す。
「それでもいいが……国には帰ってもらうぞ」
うつむいていた少女の顔が、はっとした。
悲しみが、徐々に怒りへと変わり、
「わかっていないのは、シホのほうです!」
と、苦しそうに叫んだ。
「あんなものに執着して、なんになります。わたくしたちに協力すれば、シホだって、もっと自由に生きられるんですよ。いけ好かないですが、あの男の支持も得られるはずです」
妹の必死なてのひらが、兄の腕にすがった。
「ねえ、シホ。わたくしと帰りましょう? わたくしたちは、兄妹でしょう?」
まくしたてたあとの、沈黙が痛かった。
ナオコとケビンは、かたずをのんで二人を見守っていた。
彼はこめかみをかいて、
「なるほどな」と、つぶやいた。
そして、すぐそばのロッカーから、模造品のナイフを取りだした。
「反省するつもりがないわけか。そういう心構えなら、そうか、わかった」
首元が乱暴につかまれた。リリーが悲鳴をあげた。
「本社には、そうだな……ケガで任務遂行不可のため、送り返すとでも伝えよう。君は、ここに不必要だ」
山田が腕をふりあげた。
「山田さん!」
ナオコは、思わず飛びでてしまった。山田が、ふりかえった。残酷な光が、その目にやどっていた。
「ナオコくん」
彼はきょとんとすると、妹の首元にかけていた手を離した。
「なにをやっているんだ」
「な、なにをやってって……こっちのセリフです! なにをしようとしていたんですか!」
リリーは、すっかり凍りついていた。ケビンが駆け寄ってきて、
「おい大丈夫か」
と、肩をたたいた。
すると、彼女はその手を振りはらい、部屋から逃げだした。
山田がぎろりと彼女の背中をかえりみて、後を追おうとしたので、ナオコは慌ててその腕をつかんだ。
「待ってくださいってば! 本当になんなんですか!」
彼は眉をひそめた。
「話を聞いていたんだろう。君に危害を加えようとしたからな」
「危害って」
ケビンが、しゃがみこみ、散らばった小瓶の中身を検分した。
「げっ、毒かよ、これ」と、口元をひきつらせる。
「ど、どく」
ナオコは、眩暈がした。昨日の事件は、彼女の殺意に火をつけるに十分だったのだ。
「宿直のタイミングを狙って、こっそり飲み物にでも混ぜるつもりだったんだろう」
深いため息をついて、眉間をおさえ、
「こんなことなら、さっさと国に返せばよかった」と、つぶやく。
「すまなかった、本当に。もしかすると、リリーは他にも君に危害を加えていたんじゃないか」
ナオコは、おもわず目を泳がせてしまった。山田の顔が暗くなる。
「あったんだな」
「……一カ月ほどまえに、ちょっと、その、そういうことはありましたけれど」
小さく言う。
「だろうな。すまない、彼女も大人だし、攻撃的な態度は、さすがに慎むかと思っていたんだが……早く俺に言ってくれれば」
彼は、心底後悔した様子だった。
「言えるわけないですよ。妹さんのことですし」
「そんなことはどうでもいい。彼女を肉親と思ったことはない」
ナオコは、耳を疑った。
「どういうことですか」
「彼女は、俺を利用したいだけだ。そのために、わざわざ日本への出張を買って出たんだろう」
黙っていたケビンが、
「スナークがなんちゃらって言ってたことか」
と、口をはさんだ。
「まーた俺たちの知らないところで、なにかが進んでいるわけだ」
山田は嫌そうな顔をしたが、説明しないのも不義理だと思ったのか、
「アルフレッドが亡くなってから、本社のスナークに権利向上の動きが出ているらしい」
と、説明した。
「リリーはそれに賛同して、俺の協力をあおぐために日本に来たんだ。わかるか、兄妹と一括りにしても、俺たちには十何人もいるんだ。肉親と思えるはずもない」
ナオコは、その言葉がまったく信じられなかった。
「でも、山田さん、リリーのこと、あんなにお世話してあげていたじゃないですか」
「最初こそ、なにかしでかしに来たんだろうと警戒していたんだ。だから、君に世話係なんぞも任せたくなかった。しかし最近は、俺にもつきまとわないし、落ちついていたから……」
彼は、自責の念にかられたのか、唇をかんだ。
「油断していた。彼女がそう簡単に変わるはずがなかった」
「そんなに本社のスナークの扱いってのは、ひどいもんなのか」と、ケビンがたずねた。
「ひどいと言えばそうだし、ひどくないと言えばそうだ」
山田は、ぼそぼそと話した。
「そもそも俺たちは、人並みの扱いを受けるべき存在ではない。それなのに、そういう権利の向上を願うのは馬鹿げている。リリーにも、そう説明したんだが」
ケビンとナオコは、顔を見あわせた。
とにかく、山田を通してはいけないと思って、
「山田さん、ひとまずリリーのことは放っておきましょう」と、ナオコは提案した。
「ね、いま追いかけたって、どこに行ったかわからないですし……」
「GPS見たらどうだ?」
ケビンが意を汲まないことを言ったので、頭をはたく。バディ同士の携帯電話には、いざというときのためにGPS機能がついており、おたがいの居場所が分かるようになっている。
「お願いです、あんまり乱暴なことしないでください」
懇願すると、山田は不服そうにした。
「乱暴というが、君がされようとしていたことは、乱暴どころの騒ぎじゃないぞ」
「それはそうですけれど……」
彼女はまごつきながら、
「でも、山田さんが、そういうことする場面、見たくないです」と、うつむいた。
山田は、片方の眉をつりあげて、口をつぐんだ。そして、しばらくしてから「わかった」と、しぶしぶ答えた。
「たしかに、少し頭に血がのぼっていたな、リリーを詰問するのは、明日でもいいだろう」
ナオコは、ぱあっと顔を明るくした。
「ありがとうございます」
「おまえよ、殺されかけたんだろ? よくそれで、そういう顔ができるな」
ケビンが、呆れた顔をした。